1908年創立 台東区「小島小学校」 塔屋のたたずまいはデザイナーズ施設になっても変わらぬまま
デザイナーの創業支援を行う施設「台東デザイナーズビレッジ」の元となった復興小学校・小島小学校について、都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。復興小学校とは何か 都営地下鉄の新御徒町駅から南へ徒歩3分。物見の塔を持つ一風変わったデザインが目を引く旧小島小学校(台東区小島)が見えてきます。 建物は1928(昭和3)年築の復興小学校。2003(平成15)年に閉校後、地域で創業を目指すデザイナーを支援する「台東デザイナーズビレッジ」を含む中小企業振興センターとして稼働しています。今回は、ほぼそのまま再利用されている復興小学校の話です。 望楼が異彩を放つ旧小島小学校の校舎(画像:黒沢永紀) 1923(大正12)年9月1日の正午前。関東一円を襲った未曾有の大地震「関東大震災」によって、首都圏は壊滅的な打撃を受けました。東京の被災面積は当時の40%強。罹災者170万人も同様に、当時の東京の人口の4割強に達します(参照:土木学会 土木史研究講演集「帝都復興事業について」、東京都「東京の人口推移」) 一日も早い復興を目指して始動したのが「帝都復興計画」。土地の区画整理から道路や橋梁、上下水道や電気・瓦斯(ガス)といったあらゆるインフラ、鉄筋や木造による居住設備、食堂や職安などの厚生福祉施設など、ほぼ都市機能のすべてが復興の対象となりました。 中でも小学校の復興は注力されたひとつで、実に117もの小学校が、東京の下町を中心にした焼失区域の全域にわたって、1925(大正14)年から1931(昭和6)年にかけて建設されました。 鉄筋コンクリートのビルは、すでに明治の晩年から建設され、鉄筋の学校も大正期にいくつか建設されてはいました。しかし、鉄筋コンクリート造の建物が一気に普及するのは、この復興事業のときです。 復興事業によって造られた鉄筋コンクリート造の最大の特徴は、関東大震災と同様の震度7の地震がきても耐えうる構造。既に多くの復興小学校は解体ないし建て替えられていますが、今もなお当時の校舎を使用する現役の学校がいくつもあるのは、復興小学校がいかに強固に造られたものだったかの証でもあります。 多くの復興小学校は急ピッチで建造されたため、決して豪華な造りではありません。しかし、それまでの木造校舎に比べて、鉄筋構造を生かした大きな窓からの採光、水洗トイレ、蒸気による暖房設備、そして屋内運動場(体育館)や特別教室(理科室や図工室など)など、生徒の健康と教育向上を重点に置いた、合理的な設計思想に貫かれていました。 デザイン = ドイツ表現主義 + 国際様式デザイン = ドイツ表現主義 + 国際様式 いまではどれもあたりまえの学校の造りですが、その原点は、この復興期に確立されたものだったのです。 基本的な設計思想は一貫している一方、敷地の形状や面積に併せて、細かな設計やデザインは担当者の裁量に任されたため、ベースは共通しながら、ひとつとして同じ形の校舎はありません。 わずか数年間の建設事業でしたが、建築的な時代変遷と重ね合わせてみると、ちょうど建物に装飾を施す最後の時代から無装飾の時代、すなわちモダニズムへの移行期に重なります。それゆえ、校舎には当時の建築潮流が少なからず反映していました。 顕著なのが、従来の古典的な建築装飾を否定して、自由なデザインを提唱した「ドイツ表現主義」の流れをくむものと、装飾を排したシンプルなデザインの「国際様式」のふたつの潮流です。特に無装飾系の校舎は、戦後に量産される校舎の先駆的なものと言えるでしょう。 小島小学校、その不思議な校舎 そんな復興小学校のひとつだった小島小学校は、1908(明治41)年に創立した歴史ある小学校。関東大震災後に、現在も残る鉄筋コンクリート造の校舎が建設され、先の大戦では延焼するも、基本的な躯体は創建当時のもの。平成初期の耐震補強工事でも外観を損なうことなく、現在も復興期の姿を伝えています。 小島小学校は、前述のドイツ表現主義や国際様式など、他の多くの復興小学校に見られるものとは一線を画したデザインが特徴です。窓はすべて矩形で、窓の間には1階から3階まで半円筒形の太い付け柱が施工されています。 付け柱が屋上と接する位置には手摺壁が施工され、付け柱と同様に丸みを帯びた2段の帯状になっていて、全体的には古典的な要素をシンプルに処理した様な、古典とモダンを折衷した様な印象を受けます。 校舎南端の円筒部分に施工されたトイレ。創建当時はなんと男女共用(画像:黒沢永紀) そして小島小学校の最大の特徴は、校舎南端に施工された、円筒形の物見の塔のような構造です。弧を描いて膨らむ塔屋部分の内部はトイレで、小便器が曲面に沿って並びます。ちなみに、この円筒部分のトイレは、現在は男女別室ですが、創建当時なんと男女共用! 屋上に鎮座する「展望台の様なもの」は何か屋上に鎮座する「展望台の様なもの」は何か 円筒形の屋上部分には、展望台の様なものが施工されていますが、これはいったい何のために造られたものだったのでしょうか。台東区や復興小学校を研究する会の発行物でも、その目的を明確に記載したものはありません。 遠くから見ると、屋上の建屋は小屋造りの様にも見えますが、実際に目の前で見ると外壁はなく、屋根だけがしっかりと造られた、いわばガゼボといわれる洋風な東屋(あずまや)です。 屋上の隅に施工されたガゼボの様な造りの展望施設(画像:黒沢永紀) さらに8本並ぶ柱の間の半分には、外周に沿って極めて低いベンチが磨きをかけた人造石で施工されています。明らかに子どもサイズなので、子どもたちが座る目的で造られたことはわかりますが、内側を向いているので眺望のためでもなさそうです。 復興小学校ではありませんが、同時代に建設された広尾小学校(渋谷区東)では、消防署を併設して火見櫓(ひのみやぐら)を設置していました。復興小学校の成り立ちを考えると、この小島小学校の展望台は同様の役割も兼ねていたのかもしれません。 展望台を備えた建物、すなわち望楼は、実際に登って眺望を楽しむというよりも、地上から仰ぎ見る存在として造られてきた歴史の方がはるかに長い建築物でもあります。寺院の塔は、その崇高さを表し、また文明開花以降の望楼は、憧れを持って眺める対象としての役割を担っていました。 この小島小学校の望楼も、その目的があまり明確でないことを鑑みると、ある意味校舎のシンボルとして造られたものとも考えられます。確かにこの塔屋がなかったら、小島小学校の外観はつまらないものだったかもしれません。 さらに近代の建築で塔を施工する場合、官庁や学校は建物の中央に配するのが一般的でした。逆に、建物の隅に塔屋を施工するのは、角地に立つ商業施設などによく見られたものですが、公的な施設にもかかわらず、隅に望楼を配した点もこの小学校ならではのものでしょう。 戦後量産された、無装飾な校舎で学んだ生徒と比べ、小島小学校の卒業生は塔屋のある学校だったことを忘れはしないでしょう。小学校の記憶が、より鮮明に残る効果はあったに違いありません。 開校から94年、復興校舎になってから74年。多くの生徒が卒業した小島小学校は2003(平成15)年に区内の小学校との統合により閉校しました。 デザイナーの独立支援機構として再生デザイナーの独立支援機構として再生 閉校から1年。小島小学校の校舎は2004(平成16)年に、デザイナーの独立支援を行う「台東デザイナーズビレッジ」を中心とした、デザイナーの創業支援を行う施設として生まれ変わりました。 元来、台東区は靴や鞄、そしてアクセサリーなどの雑貨関連産業が集積する地域で、そういった地場産業の活性化を促進する場として誕生したのが「台東デザイナーズビレッジ」です。 雑貨やアパレル、そしてグラフィックなど、デザイナーを目指す志望者が、最長3年のあいだ、低廉な家賃でスペースを借りられ、区内での創業支援を受けることができます。メインのスペースは、教室を40平米と20平米の2つに仕切ったもの。家賃は区内比で約3分の1といいます。 また、経営のノウハウなどは、ビジネスアドバイザーであるインキュベーションマネージャー(通称「村長」)をはじめとして、同施設内の台東区産業振興事業団などがサポート。セミナー形式で学べるカリキュラムも、独立を目指す人にとっては有難いシステムです。さらに、独立後も自治体との連携を維持できるのも嬉しいことでしょう。 オープンから2019年までに90社以上の入居者が卒業し、その半数程度が台東区内で店舗や事務所を開設して稼働しているとのこと。 デザイナーズビレッジに入居するアパレルの「tactor」さんの採光に長けた作業場(画像:黒沢永紀) 復興小学校に限らず、少子化により閉校した校舎の再利用として、地域のコミュニティセンター的なものが多い中、このデザイナーズビレッジは、とても特殊かつ先駆的な試みと言えるでしょう。 デザイナーズビレッジでは、10月から11月にかけて2020年度の入居者を募集中。ファッションやデザイン関連で独立をお考えの方は、一度訪れてみてはいかがでしょうか。 東京で一番小さい区ながら、浅草や上野をはじめ、江戸から続く文化がギュと凝縮した台東区。そんな台東区で、個性的なルックスとともに復興の歴史を今に伝える旧小島小学校。普段は外観のみ見学が可能ですが、一度物見の塔校舎をご覧になってみてください。
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