水害の危険地帯だった「月島・勝どき」が誰しもうらやむ“住みたい街”に大変身した歴史的経緯

「住みたい街」として知られる月島・勝どきエリア。そんな同エリアですが、実はかつて水害の危険地帯だったことをご存じでしょうか。その歴史について、フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。

優れた江戸川区の治水対策

 豪雨による水害は毎年発生します。もちろん、東京も無縁ではありません。とりわけ2019年10月の台風19号にともなう水害は、首都圏各地に大きな被害を及ぼしました。この水害でもっとも注目を集めたのが、区部東部に位置する江戸川区でした。

 江戸川区は2019年5月、ハザードマップを改定して区内の全世帯に配布。その表紙には、同区全域が水に漬かっているイメージ画像が使われました。説明文はさらに過激で、

「区のほとんどが水没」
「より安全な区外へ」

と、その危険性を呼びかけていました。

 なぜ、江戸川区はそこまでの行動に出たのでしょうか? 理由はシンプルです。江戸川区が長らく水害の多発地帯だったから。

 江戸川区は江戸川の河口域に広がるデルタ地帯で、海抜が低く、かねてより洪水が絶えませんでした。1910(明治43)年8月に発生した「明治43年の大水害」や、1947(昭和22)年のカスリーン台風では、区のほとんどが水没しています。そのため、台風19号でも強く警戒が呼びかけられたのです。

 ところが台風が実際にやってきても、江戸川区では目立った被害が出ませんでした。その背景には、明治以降、

・大規模な堤防
・大規模な放水路

を建設して、治水対策を進めていたことがあります。ようやく成果が出た、といえるでしょう。

水害に弱かった月島・勝どき

 さて場所は変わって、中央区の月島・勝どき。このエリアの運河には重厚な水門が設置されていたり、区画を区切る防潮堤が残っていたりします。

勝どきのタワーマンション(画像:写真AC)



 タワーマンションが立ち並び、現在では湾岸の「住みたい街」となっているこのエリアになぜそこまでの対策が必要なのか、疑問に思っている人も少なくないでしょう。しかし、その充実さがあってこその「住みたい街」であることを、多くの人は知りません。

 月島・勝どきは――かつて極めて水害に弱いエリアだったのです。

高潮が危険な理由

 月島・勝どきの主な災害は「高潮」でした。

 高潮とは、台風や強い低気圧の来襲で海水面が異常に高まり、陸地に浸入する現象です。高潮と津波との違いは、

・高潮の原因:低気圧
・津波の原因:地震

といった程度で、海水のかたまりが押し寄せてくることに違いはありません。そのため、高潮を津波、あるいは「海嘯(かいしょう、つなみ)」と表現している文献もあります。

 高潮が危険なのは、津波よりも頻繁に発生するためです。月島・勝どきは1892年(明治25)年の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」で掘り取られた土砂を使ってできた土地です。当時は堤防などの水害対策はほとんどなく、高潮による被害をたびたび受けていました。

明治初期の地図(左)と1909(明治42)年に測図された地図(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 1911年7月の高潮被害について、『朝日新聞』同年7月27日付朝刊は「海嘯月島を襲ふ 工場、人家を一嘗め 米と泥と糠の混交」の見出しで、次のように伝えています。

「大暴風雨はついに海嘯を来し月島一号地二号地の東南海邊の堰防一面を破壊し尽くして急激に登場を氾濫せしより一面に浸水し見る見る内に床上一、二尺の高さまで浸水を蒙る」

 一尺は約30cmですから、30~60cmの高潮が押し寄せたわけです。30cmは大したことがないように思えますが、実際は人を押し流すのに十分とされおり、とても危険です。ましてや、木造平屋の家屋が並んでいた当時の月島・勝どきに向かって、がれきなどを含んだ巨大な波が襲ってくるわけですから、大被害であることは容易に想像できます。

120~150cmの波が襲来

 これを越える大災害が、1917(大正6)年10月1日に東京湾全域を襲った高潮でした。東京湾ではちょうど満潮の時刻に発生したことで、横浜港では多数の船が転覆。千葉県浦安では行徳塩田が壊滅する被害となりました。もちろん、月島・勝どきの被害も甚大でした。

1909(明治42)年に測図された地図(左)と1917(大正6)年に測図された地図(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 被害翌日の『朝日新聞』10月2日付朝刊は、月島の被害をこう記しています。

「到る処家屋も家財も潰倒せしが儘破棄されて人跡全く絶たる如し」

 記事では押し寄せた波の高さが4~5尺(120~150cm)だったとし、犠牲者の遺体があちこちに並べられているとあります。

 綿引テル子『わたしと月島 その二』(1994年、私家版)には、著者が父に聞いた話として、1階押し入れの真ん中の仕切りを越えて水が入ってきたと書いてあります。そしてこの水害を機に、安全を求めて多くの人が月島を去ったとしています。

「カミソリ堤防」の登場

 その後、治水工事は進み、大規模な被害発生は減りました。そして、1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風を契機として、さらなる対策が行われることに。

 伊勢湾台風の高潮はなんと最大5m。対して、中央区の土地は最も高いところで4.7m(日本橋本石町)……伊勢湾台風並みの高潮が起これば、湾岸部はおろか中央区そのものが水没してしまうと危惧されたのです(月島地区100周年実行委員会編『月島百年史』1993年)。

 そこで東京都と建設省(現・国土交通省)は、中央区の海沿いから隅田川にかけて総延長約20kmに及ぶ堤防を建設。水面から高さ6~7mのいわゆる「カミソリ堤防」で、これにより災害の危険は去りました。

1917(大正6)年に測図された地図(左)と1966(昭和41)年に改測された地図(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 一方、隅田川の河辺にあった船着き場や桟橋はすべて撤去され、川の見える風景もなくなってしまいました。ちなみに現在は、隅田川沿いに遊歩道が整備されています。

 過去に発生した災害への対策で、現在の「住みたい街」が生まれたという事実――。住人は先人たちの努力に感謝するしかありません。

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