明治時代の力士たちは何を食べていたのか?両国・相撲グルメの危険な誘惑
相撲の街・東京の両国。今も昔も、力士たちは大食漢であり、グルメでもありました。しかしながら「ちゃんこ鍋」という名の付いた鍋は、戦前には存在しなかったようです。戦前の力士たちは何を食べていたのでしょうか? そして、全国を食べ歩いた美食家ぞろいの力士たちが選んだ、日本一の美味しいものとは何でしょうか? 食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。明治時代の力士の食事は 朝食:米のみ 昼食:米のみ 夕食:米のみ 東京・両国の名刹、回向院(えこういん)。 回向院(画像:近代食文化研究会) 1909(明治42)年に旧両国国技館が建設されるまで、大相撲春場所、夏場所はこの回向院の境内で行われていました。 >>関連記事:戦前の両国相撲グルメ。観戦中や観戦後に、観客たちは何を食べたのか? 立川斎国郷画『江戸両国回向院大相撲之図』(部分)1856年刊 (画像:国立国会図書館ウェブサイト) 現代の力士の食事といえば、栄養バランスのとれたちゃんこ鍋を中心とした、昼夜2回の食事。 ところが回向院の境内時代=明治時代の力士の食事は、現在とはまるで違っていたようです。 『食道楽』(1906年6月号)掲載の河東武士「相撲の喰べ物」によると、力士は朝昼晩の3回、「角力協会」の会所にでかけて給食を食べることが決まり。 その内容はというと、おかずのないご飯だけの食事。当時の力士は、ほとんど米だけを食べていたのでした。 横綱の特権は牛乳 朝食は7時までに食べる規則となっており、その内容はというとお粥(かゆ)。これを漬物(たくあん)と辛味噌だけで食べます。 昼食は11時まで、夕食は16時まで。内容はご飯に漬物と辛味噌。二段目の上まで出世するとようやく豆腐の味噌汁が付きます。つまり、当時の力士の食事は、ほとんどご飯だけだったのです。 もっともこれは十両より下の力士の話。十両以上に昇進すると給食の代わりに現金を受け取り、相撲部屋や自宅で好きなものを食べたようです。 当時の横綱2代目梅ケ谷の朝食は、牛乳3合。牛乳が横綱の特権であり、十両より下の力士はそれを羨望の眼差しで見つめていたそうです。 力士は昔から鍋物好き それでは幕内力士は何を食べていたかというと、大正時代以降の食事を見ると、やはり鍋物をよく食べていたようです。 漫画家の岡本一平が横綱・大錦に体験入門した際の様子を『欠伸をしに』(1919年刊)においてレポートしていますが、横綱は牛鍋を、幕内力士の小常陸はねぎま鍋を食べています。 ぶつかり稽古をする岡本一平。岡本一平『欠伸をしに』1919年刊より(画像:国立国会図書館ウェブサイト) いずれも一人で鍋を食べており、現在のように大鍋を大人数で囲むというわけではなかったようです。そして大錦は牛鍋を食べる際にわざと牛肉を大量に残し、部屋の若い者たちに分け与えています。 大錦も若い頃は、先輩力士の余り物を食べて体を大きくしたそう。幕下力士はご飯だけでは足りない栄養を、先輩力士のおこぼれで補給していたようです。 「ちゃんこ鍋」は存在しなかった? 『食道楽』(1931年2月号)掲載の伊藤忍々洞「力士と食べ物」には、 “力士社會(しゃかい)の習慣として、非常に鍋物の如き榮養價(えいようか)に富んだものを好みます。” と、やはり力士たちは鍋物好きであったと書かれています。 相撲好きの歌人であった伊藤忍々洞は、たびたび雑誌『食道楽』に相撲と食のエッセイを書いていますが、「ちゃんこ料理」という言葉は出てきても、「ちゃんこ鍋」という言葉は登場しません。 鍋物は「鯛ちり」「鳥鍋」など、一般的な名前で記述されています。また、各部屋特有の鍋物というものも登場せず、現在のような「ちゃんこ鍋」というものは戦前には存在しなかったようです。 美食家の力士が選ぶ日本一の鍋物とは “全国津々浦々を巡業して歩く間に(中略)自然と一種の食通に成ってしまふのでありませう。” 明治時代以降の汽船や鉄道の発達によって、力士の行動範囲は格段に広がります。日本各地の巡業先で、その土地土地の美味しいものをたらふく食べる力士たちは、諸国漫遊美食家となったのです。 そして彼らが好んだ鍋物とは、 “特に博多、長崎式の料理は大體(だいたい)の力士の嗜好(しこう)に適して居る(中略)其中でも實(じつ)にチリを好みます” “最も好むのは例の河豚(ふぐ)チリです” フグちり鍋(画像:photoAC) 九州北部名物のちり鍋、特にフグちりでした。 フグのためなら命もかけた力士たち 1912(明治45)生まれの作家・檀一雄は、少年の頃福岡県柳川に住んでいましたが、そこでは毎年冬の間に少なくとも3~4人はフグにあたって死んでいたそうです(『わが百味真髄(中公文庫) 』1983年刊)。 現在の我々は外食店で安心してフグを楽しむことができますが、戦前にはフグを食べて死ぬ人がたびたびいたようです。そのせいで、絶対にフグを食べないという人も多かったのです。 フグ好きの力士の中からも、時折死者が出ました。1926(大正15)年には福柳が、1933(昭和8)年には沖ツ海がフグにあたって死亡。全国の人々に、フグ毒の恐ろしさを知らしめました。 ところが美食家ぞろいの力士たちは、決してフグをあきらめませんでした。再び伊藤忍々洞『力士と食べ物』によると、フグを食べなかったのは横綱・常陸山ぐらいのもの。他の力士は死者が出ても悠然とフグを食べ続けたそうです。 力士たちにはフグにあたらない秘訣というものがあったそうです。それは自分でフグを料理すること。 もっとも沖ツ海は自分でさばいたフグにあたって死んだので、秘訣というのもあてになるものではありませんが、自分で料理して毒にあたるのならば、自業自得とあきらめもつく、ということでしょうか。 そこまでしても力士たちが食べたかったのがフグ。これほど全国にフグが普及した背景には、美食家の力士たちが命をかけて食べるほど美味しいというイメージが、戦前に確立したことがあるのかもしれません。
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