スカイツリーすぐそば 墨田区「業平」は、むかし学校で習った「在原業平」と関係があるのか?

  • 曳舟・向島・押上周辺
スカイツリーすぐそば 墨田区「業平」は、むかし学校で習った「在原業平」と関係があるのか?

\ この記事を書いた人 /

県庁坂のぼるのプロフィール画像

県庁坂のぼる

フリーライター

ライターページへ

スカイツリー近くにある地名・墨田区業平。この「業平」の由来は何でしょうか。フリーライターの県庁坂のぼるさんが検証します。

盗まれた木綿と大岡裁き

 東京スカイツリー(墨田区押上)にほど近い墨田区吾妻橋3丁目エリアに、かつて南蔵院というお寺がありました。

 このお寺の名物は、縄でぐるぐる巻きにされて祭られた「しばられ地蔵」で、江戸の庶民に広く信仰されていました。この逸話の基になったのが、時代劇でも知られる大岡越前守の名裁きです。

墨田区業平(画像:(C)Google)



 ある日、木綿を運んでいて疲れた男が本所中之郷(現・墨田区吾妻橋)にあった地蔵の前で昼寝していました。男が目覚めたところ、木綿を盗まれていました。これを聞いた大岡越前守は「目の前で盗まれたことを知らないとは許しがたい」と地蔵の召し捕りを命じました。

 縛られた地蔵が奉行所へ運び込まれると、この奇妙な裁きをひと目見ようと見物人たちが集まることに。これに怒った大岡越前守は「天下のお白州に乱入するとは不届至極」と、罰として見物人たちから木綿を1反納めることを命じました。そうしたところ、集めた木綿のなかからなんと盗まれたものが出てきたのです。その後盗っ人は捕らえられ、事件は解決しました。

実話ではなかった?

 これは大岡裁きでもよく知られた逸話ですが、実際にあった出来事ではないようです。

 この地蔵が祭られた南蔵院の解説によると、1701(元禄14)年頃、願いのある人が地蔵に縄を巻き、祈願が成就したときに縄を解くという風習ができたようです。それがいつの間にか、大岡越前守の虚実ない交ぜの逸話である『大岡政談』に取り入れられたとのこと。

 町人文化が花開いた江戸時代後期には、多くの寺社がさまざまなご利益を宣伝したり、普段は参拝できない秘仏をよその寺社から運んできたりして、参拝客を集めていました。「しばられ地蔵」の風習と大岡越前守と絡めた逸話は、そうしたなかで誕生したと考えられます。

在原業平(画像:国立国会図書館)

 現在の南蔵院は葛飾区東水元2丁目にあります。関東大震災で被災後に移転、元の場所にはわずかに墨田区教育委員会の説明板があるのみで、当時の風景は跡形もありません。

 なお、南蔵院では今も多くの人が地蔵に縄を巻いています。大岡裁きのとの関係で、近隣の警察官が事件が起きないように参拝しているそうです。

在原業平に縁が深い墨田区

 南蔵院の境内にあった、もうひとつの名所が業平塚でした。業平とは、平安前期の歌物語『伊勢物語』で知られる、歌人・在原業平(ありわら の なりひら)です。学校の授業で出てきた懐かしい名前ですね。

『伊勢物語』の「東下り」のエピソードでは、もう都に自分の居場所はないと悟った主人公が友人とともに東へと下ります。そうしてたどり着いたのが、まだ住む人の少なかった隅田川の川べりでした。ここで、在原業平が見知らぬ鳥の名を聞いて詠んだのが、

「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」

という和歌です。意味は「都という名を持つのならばたずねよう、わが思う人は無事だろうか」です。

『伊勢物語』(画像:岩波書店)



 この歌は教科書に採用されていることも多いので、なんとなく覚えている人も多いのではないでしょうか。在原業平がこの歌を詠んだのは、隅田川にかかる現在の言問橋(台東区)辺りだといわれています。

 在原業平がこの地で亡くなった後にできたのが、南蔵院境内にあった業平塚とされており、お寺があった頃には塚だけでなく業平天神も祭られていました。

業平塚の伝承と江戸時代の文献

 しかし実はこれ、かなり不思議な伝承なのです。在原業平は平城天皇の第1皇子・阿保(あぼ)親王の子で、臣籍降下した高貴な身分。その生涯で官位も従四位上・右近衛権中将となっています。

 そんな人物ですから当時の歴史記録である『日本三代実録』には、亡くなった日付が880(元慶4)年5月28日と明確に記録されています。にもかかわらず、当時は都から遠く離れた関東の片田舎で亡くなったのです。

『江戸名所記』(画像:国立国会図書館)

 在原業平がこの地でなくなったことを語るのは、江戸前期の仮名草子(かなぞうし。仮名書きの小説類)作家・浅井了意が書いた『江戸名所記』という、当時の名所案内です。ここでは古老の伝えと前置きした上で、このように語っています。

「都にのぼらんとして船に乗り給ひしが、この辺りの浦にて舟損じて死に給いしを塚につきたり」

 つまり、在原業平は都に上ろうとしたが、舟が損じて亡くなったというわけです。

 在原業平は当時の国家事業として編纂された歴史書『日本三代実録』に記録されているほどの人物です。このことからも、業平塚の伝承のほうが信ぴょう性に欠けると考えられます。

伝承から塚と神社ができた事実

 ただ、業平が南蔵院に全く関係ないかといえば、そうでもありません。

 江戸時代初期に、成川運平という力士が南蔵院に葬られました。この人物は、徳川家康が抱え力士を江戸城で勝負をさせたとき、負けた相手に恨まれて闇討ちされたといわれています。この成川運平が

・名前の上下の二文字を取って「成平」と呼ばれていた
・色白で容姿が美しかったため「今業平」と呼ばれていた

ことから、塚が業平の伝承と結びつき、業平塚と呼ばれるようになったとも考えられます。いずれにしても。伝承と思いつきが結びつき、次第に現実性を帯びていったのでしょう。

 この伝承は現在の地名にも伝わっています。東京スカイツリー駅は2012年3月まで、業平橋駅という名前でした。この由来は今も駅の近くにかかる業平橋です。

 江戸幕府編さんの地誌『新編武蔵風土記稿』には、業平橋は江戸時代に架橋されたときに、業平天神にちなんで名付けられたと記されています。ここからできたのが、今もある墨田区業平の町名です。

1909(明治46)年測図の地図。小梅業平町、中ノ郷業平町の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 業平が町名に採用された始まりは、1872(明治5)年に現在の墨田区吾妻橋3丁目と東駒形4丁目の一部が小梅業平町を名乗ったことです。その後、1891年に、現在の業平1~2丁目付近に中ノ郷業平町ができます。

 小梅業平町は旧本所区が震災復興の際に町名整理を行ったために1930(昭和5)年に消滅しますが、中ノ郷業平町は周辺の町域と合併して業平橋1~5丁目が成立、その後の1967年の住居表示の際に現在の業平に改名されました。

 元ネタの『伊勢物語』は実際の話ではないと考えられますが、その伝承から塚ができ、神社ができ、今も地名に残っているのです。業平という人物はなんとも息の長いスターといえるのではないでしょうか。

 東京スカイツリーが完成した現在、塚がしっかり残っていれば間違いなく名所となっただろう――筆者はそう思っています。

関連記事