戦前の両国相撲グルメ。観戦中や観戦後に、観客たちは何を食べたのか?

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戦前の両国相撲グルメ。観戦中や観戦後に、観客たちは何を食べたのか?

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食文化史研究家

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相撲の街・東京の両国。焼鳥やちゃんこ鍋など、相撲観戦には独特のグルメがつきものです。戦前の相撲の観客は、いったいどんな両国グルメを楽しんでいたのでしょうか? 『焼鳥の戦前史』で焼鳥の歴史を明らかにした、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

相撲の街・東京の両国

相撲の街・両国。

両国国技館前 (画像:近代食文化研究会)



 両国国技館での相撲観戦といえば、観戦中は国技館地下で焼いている名物の焼鳥を食べ、観戦後はちゃんこ屋でちゃんこ鍋、というのが定番でしょう。

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両国のちゃんこ屋 (画像:近代食文化研究会)

 ところが戦前の両国相撲グルメは「ニワトリの焼鳥とちゃんこ鍋」ではありませんでした。

明治時代の観戦中グルメ

 作家の岡本綺堂は、『風俗明治東京物語』(1987年刊)において、1901(明治34)年の両国大相撲本場所の様子を記録に残しています。まだ国技館がなく、回向院の境内で興行が行われていた時代です。

立川斎国郷画『江戸両国回向院大相撲之図』の一部(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

 この絵は1856(安政3)年の立川斎国郷画『江戸両国回向院大相撲之図』の一部。

 上部に当時の観客が描かれていますが、酒を飲みながら半裸で立ち上がって騒いだり、柱によじ登ったりとやりたい放題。現在の相撲観戦とはまるで違う狂乱ぶりです。

 岡本綺堂によると、1901(明治34)年の本場所の観客も、江戸時代と同じく粗暴な観客でした。なにせ金をかけるギャンブル場でもあったので、殺気に満ちていたのです。

 “総じて相撲見物の客は、老若を間わず褒(ほ)めていえば元気の好い、悪くいえば殺伐(さつばつ)な粗暴な気風を帯びている”

 “まず冷酒に焼鯣(やきするめ)という色気のない好みで、向う鉢巻、片肌脱ぎの先生達がこの冷酒をガブガブ、焼鯣をムシャムシヤ”

 焼鳥を片手にゆっくり観戦、という現代とは異なり、片手に酒のガラス瓶、片手にスルメを握りしめて、立ち上がって一心不乱に応援するというのが、明治時代の大相撲観戦の様子でした。

粗暴な観客に対応する寿司屋

 岡本綺堂によると、場内では売り子がスルメ、ゆで卵、パン(おそらく菓子パン)、大福餅などを売り歩いていたそうです。いずれも片手で食べられるものばかりで、酒瓶と食べ物を両手に、立ち上がって観戦していた様が目に浮かびます。

 ちゃんとした食事はというと、弁当の他には屋台で煮込みや寿司を売っていました。

煮込み(現在のおでん)の屋台 清水晴風 『世渡風俗圖會』(刊行年不詳)より(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

 煮込みというのは「煮込みのおでん」、現在でいうところのおでんです。明治中期までの東京では、「おでん」といえばゆでたこんにゃく等に甘い味噌ダレを塗ったものを意味しました。現在のおでんはこれと区別するために「煮込みのおでん」あるいは単に「煮込み」と呼んでいました。

 明治時代の握り寿司は、現在とは違い桶ではなく皿に盛って提供されていました。ところが相撲の観客は粗暴なので、皿を割ってしまい大変危険です。

昭和初期の与兵衛ずしの写真。皿に一人前を盛って提供。永瀬牙之輔『すし通』より引用(画像:近代食文化研究会)

 両国にあった江戸時代からの名店、与兵衛ずしの関係者小泉清三郎によると、相撲観客向けの寿司は皿ではなく、割れない桶に盛って出すのが古来からの習わしだったそうです(『家庭鮓のつけかた』1910年刊)。

両国にあった与兵衛ずしの跡地(画像:近代食文化研究会)

焼鳥は大正時代から?

 1908(明治41)年生まれの劇作家・岸井良衞(きしいよしえ)によると、大正時代の両国国技館にはおでん、ゆで卵に加えて焼鳥の屋台も出ていたそうです(『大正の築地っ子』1977年刊)。

 ただしこの焼鳥、おそらく現在の焼鳥とは全くの別物。

 別記事の「焼鳥の発祥地は秋葉原!?現在の焼鳥はゴミのリサイクルから生まれた」にあるとおり、
大正時代の焼鳥は鶏肉ではなく、豚の内臓肉の串焼きが主流。

 岸井良衞の世代ですと、焼鳥といえば豚の内臓の焼鳥というのが常識。国技館の焼鳥も、おそらくは豚の内臓焼であったと思われます。

弁当代わりの寿司や親子丼

 岡本綺堂によると、両国大相撲の弁当は高くてまずいものでした。興行元が中間マージンを上乗せするので、どうしても値段の割に質の低い弁当となってしまうのです。

 なので賢い客は、事前に昼食を済ませるか、自ら弁当を持ち込んでいました。そこで人気となったのが、先程の両国の名店、与兵衛ずしだったというわけです。

 与兵衛ずしと並んで両国大相撲名物だったのが、「ぼうず志ゃも」の親子丼。

 1906年の雑誌『実業世界太平洋 第5巻3号』の「東京一の軍鶏(しゃも)屋」(江戸ツ子)によると、大相撲開催期間の昼食時のぼうず志ゃもでは、1時間に500杯の親子丼を提供していたそうです。

 ちなみにぼうず志ゃもの親子丼は、軍鶏肉を鶏卵でとじたものではなく、炒り卵と肉を丼飯に載せたものでした。

春場所帰りには軍鶏、山鯨、合鴨の鍋三昧

 明治時代の春場所は、一月に両国で行われました。「新春」の春というわけですね。

 春場所の帰りには何を食べるのか。一月の寒さの中、ちゃんこ鍋で温まりたいところですが、明治時代に「ちゃんこ鍋」なるものは存在しません。当時の観客が楽しんだのは、別の鍋物でした。

 1894(明治27)年生まれの作家小島政二郎は、子どものころつまり明治時代の春場所からの帰り道を、以下のように回想します。

 “昔々、まだ梅ヶ谷、常陸山、荒岩の時代、相撲が回向院で晴天十日間の興行をしていた頃の話である。”

 “春場所がはねて、櫓太鼓(やぐらだいこ)の音に送られてゾロゾロ帰る時のことだ。吹きッさらしの両国橋の上が思いやられる寒い寒い一月の夕方。神妙に透きッ腹をかかえて家へ帰る気がしない。つい目と鼻の先にある坊主シャモ、ももんじ屋、相鴨の鳥安あたりへ足が向く。”(『食いしん坊3』1973年刊)

 親子丼のぼうず志ゃもは、大相撲が終わった後には、味噌ダレの軍鶏鍋を楽しむ客で満杯になりました。昼の親子丼と合わせて、大相撲開催中には一日100羽の軍鶏を消費していたそうです。

 “私は小学校の生徒の頃から、豊田屋の山鯨の味を知っていた。”

 豊田屋(現・ももんじや)は江戸時代から山鯨(イノシシ)や鹿などのジビエ料理を提供する店。

ももんじや(画像:近代食文化研究会)

 “こいつを食ったあとは、体が暖まって九十六間の両国橋を渡るのが苦にならないと大人達は言っていた。牛肉とも豚とも違う、脂ッこいが、シャリシャリした存外淡泊な味だった。” 

イノシシ肉のぼたん鍋 (画像:photoAC)

 両国のぼうず志ゃも、ももんじや(豊田屋) 、隅田川対岸の東日本橋の合鴨の鳥安、いずれも現在も営業を続けています。

 両国国技館で相撲見物の後は、ちゃんこ鍋の先輩である伝統の味、軍鶏鍋、ぼたん鍋、合鴨のすき焼きを楽しんでみてはいかがでしょうか。

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