開店は130年前 上野にあった「日本初の喫茶店」を支えた明治人の壮大過ぎるロマンとは
日本人になじみ深く、愛好者も多い喫茶店。その第1号は上野にありました。その歴史について、フリーライターの本間めい子さんが解説します。コーヒー1杯で「ねばる」時代は終わった? 東京にはいつの時代も、「日本初の○○」といったものが次々と生まれては消えていきます。これは東京の人口が多いだけでなく、文化を発信する都市と考えられているからでしょう。 そんななか、さまざまな「日本初」の中でふと気になったのが喫茶店です。編集やライターを仕事にしていると、喫茶店は執筆や打ち合わせで身近な空間。しかし近年、昔ながらの喫茶店は姿を消し、トレンディーなカフェや安価なコーヒー店に次々と変わっています。 また、ひとつのお店に長居しづらい空気も広まっています。コーヒー1杯で「ねばる」という表現も最近は耳にしません。 レトロな喫茶店イメージ(画像:写真AC) 昭和から平成にかけての東京には、特徴ある喫茶店があちこちにありました。例えば客層です。歓楽街にはホステスの同伴出勤で夕方からにぎわう店が随分ありましたし、どうみても「あちらの世界の人たち」が御用達にしている店もありました。 インターネットカフェがなかった当時は、終電を逃したら深夜営業の喫茶店へ――というのが定番でした。このような店は24時間営業ですが、なぜか睡眠は禁止。中にはうっかり寝てしまうと、女性店員がメニューで頭をたたきに来るという店もあったほどです。 江戸時代には飲まれていたコーヒー江戸時代には飲まれていたコーヒー そんな喫茶店ですが、日本では明治時代以降に始まった文化です。しかしコーヒー自体は、江戸時代に早くも持ち込まれていました。 日本にコーヒーを紹介したのは、長崎の出島にやってくるオランダ人たちでした。1782(天明2)年に蘭(らん)学者の志筑(しづき)忠雄が訳した『万国管窺(ばんこくかんき)』には 「阿蘭陀の常に服するコッヒーと云ふものは形豆の如くなれどもじつは木の実なり」 と書かれています。 狂歌師として歴史に名を残す大田南畝(なんぽ)は幕府の役人だった縁で、1804(文化元)年にオランダ商人からコーヒーを振る舞われたことを記録しています。その味の感想はというと、 「焦げくさくして味ふるに堪ず」 というものでした。 コーヒー豆(画像:写真AC) これ以前にも、エレキテルで知られる平賀源内が1773(安永2)年に秋田藩士・小田野直武(おだの なおたけ)にコーヒーとみられる「南蛮茶」を振る舞ったという記録が残っています。 江戸時代にはコーヒーを飲んだ記録はいくつもあるのですが、誰ひとりおいしさを記録していないところを見ると、恐らく「焦げ臭くて苦い変なものを飲まされた」と考えていたのでしょう。そのため、嗜好(しこう)品としての飲み物より、薬の類いと見られていたようです。 当時は、現在のようなドリップやエスプレッソといった抽出法はありません。大抵は、トルココーヒーのように豆を直接煮て飲んでいたようです。 日本初の喫茶店を作った国際エリート日本初の喫茶店を作った国際エリート 日本でコーヒーが飲み物として認知されていくのは、明治時代になり喫茶店が誕生してからのことです。日本初の喫茶店は1888(明治21)年4月、黒門町(現在の上野1~3丁目の一部)にできた「可否茶館(かひさかん)」という店でした。 1909(明治42)年測図の地図。「黒門町」の記載が見える。北には不忍池(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕). この喫茶店を開いたのは、鄭永慶(てい えいけい)という人です。永慶は代々長崎に根付き、唐人屋敷(中国人住居地区)の通訳を家業としていた一族に生まれました。父の鄭永寧は明治維新後に外務省の役人になり、日清修好条規の締結(1871年)に尽力した人として歴史に名を残しています。 そんな一族の生まれということもあり、永慶も幼い頃から語学の勉強に明け暮れていました。10代の時には日本語に加え、英語、フランス語、中国語を話せたといい、アメリカのエール大学にも留学しています。いわば国際的なエリートです。 日本に帰国後は岡山師範中学校で教師をしたり、大蔵省(現・財務省)で役人をしたりしていました。 欧化主義に抗す手段としての喫茶店 そんな輝かしい経歴の永慶が喫茶店を始めたのは、壮大な目的がありました。 実は喫茶店を開く前年、自宅が火事で焼けてしまったのです。なんとか西洋風の屋敷として建て直し、学校を始めるか喫茶店を開くか迷った末、喫茶店を開くことにしたのです。 当時の日本は欧化主義の全盛。上流階級は鹿鳴館(ろくめいかん)で夜な夜な夜会を開き、社交に明け暮れていましたが、西洋をうわべだけまねて追いつこうとしていると批判の声も少なくありませんでした。 永慶もそんな批判者のひとりでした。そこで永慶が考えたのは、喫茶店を開いて知識人が集う本物の社交場をつくることでした。 海外の事情に通じていた永慶は、ヨーロッパに見られる知識人や文化人の集まるカフェを日本に作ろうとしました。コーヒーを売ってもうけるというより、「たまり場」の提供。ただ、客の回転率や損益分岐を考えずに夢だけで店を運営するのは、現在でも最もやってはいけないパターンです。 コーヒー(画像:写真AC) 実際、この店は全くもうかりませんでした。価格はコーヒー1杯1銭5厘、ミルク入りが2銭。現代に換算すると800円から1000円くらい。かなりの高級店です。 結局、店は3年あまりで閉店に追い込まれました。その後、アメリカに密航した永慶は1895(明治28)年にシアトルで亡くなったと言われています。 復活した「可否茶館」復活した「可否茶館」 ところが「可否茶館」は、昭和になって復活を遂げたのです。 それが、1967(昭和42)年開店の杉並区・阿佐ヶ谷のガード下にあった純喫茶「可否茶館」です。 在りし日の「可否茶館」。2009年撮影(画像:(C)Google) この店は単に屋号を借りたのではなく、開店当初の共同経営者のひとりが永慶の孫だったという逸話が残っています。残念ながら、この店も2011年に再開発でなくなってしまいました。 愛好者が多いレトロ喫茶店ですが、近年は経営者の高齢化や再開発によって次第に数を減らしています。そんなときこそ、永慶のように壮大な理想とロマンを喫茶店で語り合うのも面白いかもしれません。
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