大都会の東京・中央区 しかし約60年前まで「渡し船」で移動する人たちがいた!

隅田川の両岸を行き来するため、船を使った「佃の渡し」が1964年まで現役だったのをご存じでしょうか。その歴史について、フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。


始まりは1645年

 かつて隅田川の両岸を行き来するために、渡し船があちこちにありました。そのなかで最後まで残ったのが、かつて漁村だった佃島(現・中央区)と対岸とを結ぶ「佃の渡し」です。

1932(昭和7)年発行の地図。「佃島渡」の記載がある(画像:国土地理院)

 佃の渡しは、江戸時代から東京が著しく発展する直前まで長きに渡って存在しました。
その始まりは、京橋図書館が1966(昭和41)年に編さんした『佃島年表 佃大橋開橋記念』によると、1645(正保2)年とされています。

 そもそも周囲は江戸時代を通じて島だったこともあり、船がないと行き来をすることができません。そのため、石川島の南の砂州を整備して佃島ができると、間もなく渡し船も整備されたようです。

 江戸時代中期頃から、島へ渡る渡し船は地元民だけでなく観光客にも利用されたようです。1732(亨保17)年に俳人の菊岡沾涼(せんりょう)が出版した『江戸砂子』には

「わづか一町はなれて十里の浪路も越たるおもひに心さびしくおもしろし」

と書かれています。

 この記載から、大都会である江戸の町から少し離れているだけなのに、ひなびた漁村の風景を楽しめる「都会に近い田舎」として観光スポットになりつつあったことがうかがえます。

佃島の観光の目玉は潮干狩り

『江戸砂子』の時代は、渡し船に乗って島内の住吉神社を参拝するのが主な観光だったようですが、江戸時代後期になるとさらなる目玉ができます。

中央区佃にある住吉神社(画像:(C)Google)

 天保年間刊行の『江戸名所図会』で紹介されている潮干狩りです。

 江戸時代後期には多くの人たちが3月の潮干狩り、6月の住吉神社の大祭に渡し船で佃島を訪れていました。1769(明和6)年の3月には、潮干狩りの時期に佃の渡しが転覆して約30人が亡くなった記録があります。不幸な出来事ですが、渡し船の利用を示す貴重な記録です。

渡船料をごまかす者も


【1963年撮影】「渡し船」で移動する人たち

画像ギャラリー

/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_05-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_06-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_07-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_08-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_09-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_01-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_02-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_03-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/10/211020_tsukuda_04-150x150.jpg

New Article

新着記事

Weekly Ranking

ランキング

  • 知る!
    TOKYO
  • お出かけ
  • ライフ
  • オリジナル
    漫画