漫画『こち亀』でお馴染み? 中央区「勝鬨橋」はかつて開閉する橋だった

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漫画『こち亀』でお馴染み? 中央区「勝鬨橋」はかつて開閉する橋だった

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出島造

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漫画『こち亀』で一躍知られることとなった勝鬨橋の開閉。その歴史について、フリーライターの出島造さんが解説します。

開閉をやめてもう50年経過

 隅田川を越えて築地と勝どきをつなぐ勝鬨橋(かちどきばし)はかつて、隅田川を航行する船のために、カタカナのハの字の形に開いたり、閉じたりする可動橋(跳開橋)でした。

現在の勝鬨橋(画像:写真AC)



「そんなことは当然知っている」という読者も多いと思いますが、今回記事を書くにあたってアーバンライフメトロ編集部に指摘されたのは「勝鬨橋が開いていたことを知っている人はもう少ないですよ。最後に開いたのはもう50年も前ですから」ということ。

 なるほど、橋の完成は1940(昭和15)年6月。そして最後に橋が開閉したのは1970(昭和45)年11月ですから、開かなくなってからの歴史のほうがもう長くなっています。

 それでも可動橋であることを知っている人が多いのは、きっと漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(集英社)のおかげでしょう。原作では2回にわたり、開閉を終えた勝鬨橋を開けています。そもそも勝鬨橋自体を『こち亀』で知ったという人は多いのです。

 ともあれ、今回は可動橋時代の勝鬨橋の話題です。本題に入る前に記しておきますと、橋の名前は「勝鬨橋」ですが、築地から橋を渡った対岸の地名は「勝どき」。「鬨」の字が当用漢字にも常用漢字にも含まれないため、町名に採用される際、ひらがなを採用することになったのです。

 地名の由来は1905(明治38)年、日露戦争の旅順陥落を記念して築地と対岸の月島を結ぶ渡し船が設置され、「勝鬨の渡し」と命名されたのに由来します。1965年に勝どきの町名が制定されるまで、現在の勝どきは月島通、月島西仲通といった町名で、月島の一部と見なされていました。

 勝鬨の渡しは築地(当時は小田原町)の波除神社の脇の船着き場と、現在の中央区立セレモニーホール(中央区勝どき)のところにあった船着き場とを結んでおり、当時多かった工場の従業員を運ぶルートとしてにぎわっていました。

 そして、月島4号地(現在の晴海)で開催予定だった「紀元2600年記念日本万国博覧会」のメインアクセスルートとして1940年、橋が建設されることになりました。

橋の開閉は当初1日5回、その後3回に

 日中戦争が激化したため、博覧会自体は1938(昭和13)年に中止が決まりますが、橋の建設は続行され、1940年6月14日にいよいよ開通式を迎えます。最初に渡ったのは、月島通に住んでいた古賀さん夫妻とその長男夫妻と孫夫妻……と、当時の新聞記事には記されていますが、どういう都合で選ばれたかはわかりません。

 また最初に開いた橋をくぐったのは、晴海の陸軍病院に入院していた患者を乗せた船でした。橋の開閉は当初1日5回、戦後になると1日3回となります。このほか、さまざまな事情で、決められた時間外にも開いていたようです。

1947年頃の勝鬨橋(画像:国土地理院)



 また、当初より予定されていた橋の上を走って月島へ向かう都電は、1947年12月24日朝に開通。渡り初めでは、車両に乗った区会議員や街の有力者が窓から首を出し、日の丸の小旗を振って万歳を唱え、待ち構える月島の人も万歳を叫んでいたといいます。

 勝鬨橋の資料を読んでいて気になったのが、当時は観光地としてにぎわっていたことです。勝鬨橋の開閉部分は長さ50m。それが斜度70度くらいまで持ち上がって開くのですから、かなり迫力のある光景だったのでしょう。

 取材当時まだ存命だった勝鬨橋の跳開作業を担当していた人物(担当部署は東京都の建設局)に取材した泉麻人さんのルポ「勝鬨橋を開けていた男」(『新潮45』2000年4月号)には、こう記されています。

「はとバスのコース、なんかにもなっていたくらいで。開く時間に合わせて団体客がやってくるんですよ」

 はとバスまで立ち寄るとは、なかなかのメジャーな観光地。いったい、当時はどんなにぎわいだったのでしょう。顔見知りの司書(図書館にいる専門職員)が「子どもの頃に開いているのを見にいったなあ」というので、話を聞くことにしました。

増加し続けた橋の交通量

 聞けば、当時の勝鬨橋は観光客は来るものの、観光地として整備されていたわけではありませんでした。

 今、勝鬨橋の周辺は両岸とも堤防に沿って遊歩道が整備されていますが、当時はカミソリ堤防があるだけ。今は川沿いの遊歩道から、橋の全体像を難なく見られますが、当時は堤防に遮られて見えません。そのため、見物するには橋から晴海通り沿いの歩道に連なる必要がありました。

「橋が開くときは見物人も多いので、河豚(ふぐ)屋さんのあたりから見たと思うんだけど……斜めに跳ね上がった橋のてっぺんがちょっと見えただけだったな」

 河豚屋さんというのは、晴海通り沿いにある、天竹(中央区築地)です。どういう風に見えるのかと、後ほど確認してみましたが、なるほど、あまり迫力のある風景には見えません。

天竹付近から見た勝鬨橋(画像:出島造)



 それでも、昭和30年代以降に観光地として脚光を浴びていた時期には「開いているところを見た」というだけで価値があったようです。

 前述の通り1日3回、9時、正午、15時にそれぞれ20分かけて開閉、そのほか必要のある時には臨時に開閉となっていましたが、次第に定時で開くことは減っていきました。

 理由のひとつは晴海通りの交通量の増加です。橋を開閉するために車を止めると、築地側の渋滞が昭和通りまで続くようになったため、船舶の往来がないなら定時でも開かないことになりました。

 開閉回数の減少は、観光地化が進んだ昭和30年代初頭には既に始まっていました。『朝日新聞』1957(昭和32)年9月16日付朝刊は「開かぬ勝鬨橋 見物人ガッカリ」として、回数が減っていることを報じています。勝鬨橋を管理していた東京都職員は次のように語っています。

「正午や午後3時の開閉時間は、ほとんど開かないことが多いので東京の名物だと見物に来る人に対してはすまないと思うことが多い。手紙などで事前に見学を連絡して貰えれば、船がいなくても開閉の様子を見るという名目で、開橋してもよいと思っている」

 現場判断で開けてもよいと取材に答えているあたりが、昭和ならではのアバウトさです。ちなみに、何日も開閉を見られず、しびれを切らして橋のたもとにあった事務所に「明日こそ開けてください」と頼み込んでくる人もいたそうです。

 こうした事情もあり、船の往来がなくとも点検の名目で1日1回は開閉することになっていたようです。

2007年、重要文化財に指定

 そして、開閉の機会をさらに減少させる事態が起きます。1964(昭和39)年に完成した上流の佃大橋は、船舶の交通を考慮せずに架橋されたため、隅田川の水運が大幅に制限されたのです。

『朝日新聞』1966年11月18日付朝刊では「開かずの勝鬨橋 落ちぶれた東京名物」として、ついに月の開閉回数が10回程度になったと記しています。既に点検名目での1日1回の開閉すらやらなくなっていたのです。

 この頃には観光客も東京タワーや国立競技場などへと移り、東京見物で勝鬨橋にやってくる人はほとんどいなくなっていました。

 この状況は続きます。『朝日新聞』1968年4月17日付朝刊では「月一度、お義理の開閉 勝鬨橋 すっかり開かずの橋に」という記事を掲載しています。この記事に記された年間の開閉回数を記してみましょう。

・1960年:517回
・1963年:147回
・1965年:98回
・1967年:23回

 回数が減少していたことに加えて、佃大橋の架橋を機に水運に見切りを付けた業者が海側へ移転し、開閉回数が激減。記事の1968年4月時点では月1回の開閉も取りやめとなり、1970年11月29日に点検のための開閉を最後に稼働は終了。1980年1月には動力部への送電もストップされ、勝鬨橋は「開かずの橋」となりました。

現在の勝鬨橋(画像:出島造)



 その後、再び橋を開閉させようとする人たちにより「勝鬨橋をあげる会」が組織されるなど、開閉を求める声も上がりますが、実現には至ってはいません。

 またウオーターフロント開発がブームになった1980年代には、晴海通りを拡張するために取り壊しが計画されたことも。この計画はのちに撤回されましたが、代案として、晴海通りの下を築地交差点付近から勝どき交差点までトンネルをつくる案も浮上しています。
 その後、2007(平成19)年に勝鬨橋は重要文化財に指定され、付近の遊歩道も整備されました。

 今回資料を探していると勝鬨橋は観光地としてだけでなく、夏になると近隣の人が夕涼みのために橋の上で腰を下ろして夜風を楽しんでいたという記述も見つけました。歩道部分は決して広くないため、現在同じことをやったら通行の邪魔になりますが、確かに夜は涼しくて気持ちよさそうです。

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