昼下がりの青山通り、「超有名女優X」が私の車に手を挙げた話【連載】東京タクシー雑記録(7)

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昼下がりの青山通り、「超有名女優X」が私の車に手を挙げた話【連載】東京タクシー雑記録(7)

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橋本英男

フリーライター、タクシー運転手

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タクシーの車内で乗客がつぶやく問わず語りは、まさに喜怒哀楽の人間模様。フリーライター、タクシー運転手の顔を持つ橋本英男さんが、乗客から聞いた奇妙きてれつな話の数々を紹介します。

まさか俺の車にXさんが乗る!?

 フリーライターをやりながら東京でタクシーのハンドルを握り、はや幾年。小さな空間で語られる乗客たちの問わず語りは、時に聞き手の想像を絶します。自慢話に嘆き節、ぼやき節、過去の告白、ささやかな幸せまで、まさに喜怒哀楽の人間模様。

さまざまな客を乗せて走る東京のタクシーのイメージ(画像:写真AC)



 今日はどんな舞台が待っているのか。運転席に乗り込み、さあ、発車オーライ。

※ ※ ※

 平成のひとケタ台から、ひそかにファンだった女優さんがいます。仮にXさんとしましょう。民放ドラマに立て続けに出演する彼女の姿をブラウン管に見つけては和み、週刊誌にインタビュー記事が載れば休憩時間の車内でページをめくり。

 演技もさることながら、声がまたキレイ。育ちの良さを感じさせる品の良い所作、独特の真摯(しんし)なまなざしに魅了されたものでした。

 10年ほど前でしょうか、そんな彼女が昼過ぎの14時頃、秋の渋谷区・青山通り、国連大学前でこちらに向かって手を挙げて立っていたのです。

 目を疑いました。いくら東京には芸能人が数多くいると言ったって、あのXさんが。普段着姿で、笑顔が美しい。通りを歩く一般の人たちとはやはり違う雰囲気、颯爽(さっそう)としています。

「えーーっ! まさか! Xさんが俺の車に乗るーー?」

 取り乱しつつも安全運転第一。車は静かに減速、思わず顔はエビス顔。私もバカですから、ボサボサになっていた髪を慎重になでつけ、深呼吸までしました。すると……。

突然現れた中年の女性が

「えっ! ちょっと、一体どうしたんですか!」

 Xさんの前に突然、買い物袋を提げた中年の女性がバッと飛び出し、細身のXさんをババッと押しのけ、すかさずバババッと車に乗り込んで来たではありませんか。

 いきなり押しのけるとは大変危険、Xさんはビックリ顔です。整えたばかりだった私の髪も、勢いでファァ……と乱れました。

「運転手さん、近くて悪いんだけど北青山の都営住宅までお願い」
「いやあーお客さん、今のは危ないじゃないですか、良くないですよ」

 このとき私、自分で気づかないうちに小さく舌打ちをしてしまったようです。もちろんわざとではありません。でも女性は聞き逃しませんでした。

「アッ、今お客さんに言ってはいけないこと言った。今、チェッって言ったでしょ」
「いえいえ、言っていません。言っていませんよ」
「言った、言ったわぁ。聞こえたもの。会社に苦情を入れて困らしてやろうかしらぁ」

 なかなか、というか、かなり気の強そうな女性です。

「あぁ……、それはご勘弁ください。どうか大事になさらないで」
「ベーだ。電話されるの怖かったら、ゴメンナサイしなさい」
「ごめんなさいね、本当に、すみませんでした」
「この次は許しませんよ。今回はゴメンしたからいいけど、ベーだ」

 降り際になって女性はもう一度、顔をババッとこちらに近づけてきて、

「ベェェーだ!」。

 そう言い残して去っていきました。とにかくすごい迫力の女性でした。

 つい10分前、あこがれの女優Xさんを乗せて走るかもしれないという僥倖(ぎょうこう)に胸をときめかせていたこともすっかり忘れ、暴風雨のように去っていった女性の背中を見送りました。

ゲリラ豪雨の夜の悲劇

 タクシー運転手にとって「ちょっと困るお客」というのは、ごくときどきいるものです。これは個人タクシーを営む知人・ヤマダさんのお話。

 ヤマダさんは会社の元同僚で、私より4歳ほど若い。彼から聞かされたのは2010年代の8月下旬、未明に発生した「ゲリラ豪雨」の夜のことです。

 前日22時過ぎ、羽田空港から八王子の先まで帰宅する客室乗務員の女性を乗せました。事前に契約を取っていた案件で、高速道路は暗闇に車のライトが点々と光ります。小雨がパラパラ降り出しました。

 彼は個人タクシーの免許を取得してまだ半年。張り切って、車は装備込み600万円超の高級車です。長期ローンを頑張って返すぞと、ちょうど波に乗っていた時期でした。

 30分後、中央自動車道の調布辺りから雨脚が強くなりました。雷がピカッ、ガラガラ、ドーンと響くありさま。やがて高速の出口近くに来ると、もうワイパーも利かないほどの豪雨に。

突然のゲリラ豪雨で視界不良。ワイパーも利かないほどの強い雨(画像:写真AC)



 ゆっくりインターを下りたところ、なんと一般道が冠水して車はノロノロ運転。ほどなく市街地に入ると、ところどころに乗り捨てられた車まで。

「えー! なんだこりゃ!」

 ようやく彼は、緊迫した事態を悟ります。ラジオの天気予報を聞こうとするも、こんなときに限ってゆるいトーク番組しかやっていません。

車体の下半分が水に浸かって

「あのー、お客さん、本当に申し訳ないのですが、途中で降りてもらうことになるかもしれません。このひどい雨だと、車が故障してしまうかもしれないので」

 おそるおそる申し出ると、客の女性も困惑顔です。

「え……。だってこんな雨の中、私どうやって帰ればいいんですか?」
「はい、もっともです。頑張ります」

 プロの意地を見せなくてはと、ヤマダさんも懸命にハンドルを握りますが、10分もすると走っている車も歩いている人も見当たらない状況。大水で、車体の半分くらいが沈んでいます。まるで川の中で車が水をゆっくり押し分けて進むような感覚です。

 市内は停電しているのか真っ暗。信号機だけが点滅しています。放置されて、完全に水没してしまっている車もありました。

 ピカピカ、ド、ド、ドーン! 地鳴りのような雷が真っ白な閃光(せんこう)を上げてとどろきました。ようやくラジオで天気予報が始まり、東京・西エリアの雨量が1時間で100mmを超えると告げます。

「えーっと100mmってどのくらい? 1時間で1mも降るってこと? これ以上走るのは危険だよなぁ……」
「……」

 女性はうつむいたまま何もしゃべりません。

「あの、ご自宅はまだだいぶ先ですか?」
「もう少し」

 彼はマフラーから水が入らないようにアクセルを力いっぱい吹かし込みます。車内は熱気で頭がフラフラ。汗、汗、汗。もう、今どこにいるのかも分からない。

突然全てが闇に包まれた

「もう駄目だぁー」
「もう少し」

 ヘッドライトは水の中から前方をかすかに照らすだけ。ぜんぜん見えない。いろいろなゴミが浮いている。のどもカラカラ。女性客は後部座席で口をとがらせています。

「もう限界です。お客さん」
「私が責任持つから行ってください」
「無理だ。これ以上は無理だ」

 その瞬間、計器の明かりが突然消えました。プツン。

「あーーーぁ?」

 全てが真っ暗闇に包まれました。すると女性客はおもむろに自分の財布から1万円か2万円を抜くとヤマダさんにサッと手渡し、「えい!」と、ドアーを無理矢理けり開けて、飛び出して行ってしまったのです。腰まで水に浸かりながら、ザブザブと。

 当然、車内の彼も浸水でみるみる胸まで水に浸かりました。トホホ、という言葉では表しきれません。車体は朝までそのままサルベージ(救出)待ちです。

 故障原因は、簡単に言うと電気のブレーカーが落ちたようなもの。それで車の修理・サルベージ代で、占めて210万円、休業1か月なり。

 つらいことに、保険の上限を超えてほとんど自腹。客の女性は「責任取る」とは言ったものの、実際はそうはいかない。それからヤマダさんの奥さん、この一件で機嫌の悪いことといったらありませんでした。

※記事の内容は、乗客のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。

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