なぜ女子高生は「制服」を着崩さなくなったのか? 90年代ギャルと現代女子、決定的違いの根拠とは
90年代のギャル全盛期と比較する 思い返させばすごく着心地がよかったし、走りやすかった。 へこんだスクールバッグ(スクバ)も少し伸びたその肩ひもも、体にとてもなじんでいた記憶がある。 そして何よりも自分が「女子高生」という実感が持ててうれしかった。 学校は好きではなかったけど制服を着るのは嫌じゃなかった――。 これが、90年後半に青春を過ごした筆者の、制服にまつわる感想です。 人が服装に求める快適さと心地よさは、周囲が想像するものと必ずしも同じとは限りません。 特に制服に関してはそう。着ている本人と見る人によって、快適さの定義はだいぶ異なるように思います。 今回は制服の話をしたいと思います。 「平成の制服進化論」はさまざまな場面でたびたび展開されていますが、本稿で取り上げるのは、筆者自身が過ごした90年代後半の制服と、現代の制服の比較についてです。 武装とも言える90年代制服コード 90年代の制服にはとにかく、常に細かい「着崩す」というドレスコードがありました。特に東京生まれの筆者にとって、そのドレスコードは無視できないものでした。 誰が決めたわけでもないドレスコード。だけど常に進化するドレスコード。ほんの少しの差でイケてる感じが出るし、逆にイモ臭くもなる。当時の制服のドレスコードはそんな、とても不可思議なものでした。 ところで、90年代後半の制服スタイルのイメージは、現代の制服よりもイメージしやすいのではないでしょうか。常にちょっとした(本当にちょっとした)変化はあれど、目に見えやすくイメージとして捉えやすい特徴がいくつもありました。 例えばルーズソックス、ラルフローレンのベスト、ミニスカートにショッパー(ブランドショップの買い物袋)、他校のスクバなど……。 ここにさらにハイビスカスや髪留めやクリップ、キティちゃんといった絶対的なアイテムがプラスさせます。もちろんPHSも欠かせません。 とにかくごてごてとデコラティブで、もはやドレスコードというよりも武装に近いものがありました。 最も重要だったのは「着崩し方」最も重要だったのは「着崩し方」「女子高生ブランド」がもてはやされた時代だったし、自分が女子高生であることを当人たちも強く意識していました。この時代にとっての制服とは、ドレスコードのある「武装」だったのです。 こうして振り返ってみると、そんなにいろいろなルールがあって実際着るのは正直大変だったんじゃないの? と思う人もいるかもしれませんが、実は案外そうでもなかったのです。 なぜなら、細かいドレスコードはあっても、制服の組み合わせ自体はとてもシンプルだったから。 当時の雑誌写真を見ても分かる通り、シャツ、スカート、ベスト、ルーズソックスとそれぞれのアイテム自体はけっこうシンプルです。その中で、いつも“ベストな状態”の着崩しを研究していました。 要は「着崩し」のバランスこそが一番重要な鎧(よろい)の役割で、他のアイコン的なギャルアイテムは盾や剣といったところでした。 1997年の雑誌『Popteen』。ミニスカにルーズソックス、ベストの組み合わせを着崩すのが当時の“ドレスコード”だった(画像:Tajimax、角川春樹事務所) カラー配色を見ても、けっこう単純です。 当時はカラーシャツを着ている人も少なく、ラルフの白ベストが人気ではありましたが、なんだかんだ紺色ベストを愛用している子が多数派。つまりアイテム自体の選択肢は限られていました。 今思えば、イケてることを意識しつつもどこか自分にとっての「快適さ」や「心地よさ」を優先していたからなのかもしれません。 放課後になると指定のリボンも外している子も多く、常に「楽な状態」を求めていました。 ブレザーをきっちり着るよりはカーディガンをダルっと着ていたかったし、放課後に街で遊ぶことを考えれば楽な状態に越したことはなかったからです。 一見たくさんのルールに縛られて窮屈に見える制服も、当の本人たちからするとすごく楽に着ていたのです。 あの頃「放課後」の時間はとても大切でした。そもそも「放課後に街で過ごす」の時間のためにドレスコードがあるようなものでした。 比較して現代の制服を見てみたいと思います。 現代は品行方正、個々人の自由化現代は品行方正、個々人の自由化 現代の制服は90年代後半とは違った印象で、品行方正な雰囲気があります。 筆者の頃にあった「街」で過ごすための「着崩す」というドレスコードというより、あくまでも学校指定のルールという正しさの中でちょっとだけ着崩しているといった印象です。 スカートの長さも90年代後半の頃よりは若干長くなり、またソックスもかなり短くなりました。全体的なコーディネートのバランスはさておき、それだけでもどこか「ちゃんとしている」感じを覚えます。ブレザーもきっちり着て、指定リボンもきちんと付けています。 またすごく驚いたのが、筆者の頃のような「女子高生ブランド」というドレスコードの縛りはなくなり、個々人の着こなしがさらに自由に細分化しているところ。 一番の違いは、選択肢がたくさんある点です。 リュック派が増えて、パーカなどの私服をブレザーの下に合わせている着こなしもあり、カジュアル化が進んでいる様子がうかがえます。 スクバ派の子も筆者の頃と比べてわざとクタクタに使いつぶすことなく、お弁当の汁テロ(汁物がバッグに染み出ること)とも無縁のような、まるで新品のようなキレイさです。 2017年の雑誌『Seventeen』。90年代後半と比べると「きちんと」感がある(画像:Tajimax、集英社) 学校パンフレットそのままの着こなしではないけれど、かと言って先生がわざわざ注意するほどでもない、ほんの少しだけ調整して「清く正しく」着崩しているのが現代の女子高生のコードのようです。 そしてスクールバックもリュックサックになったり、ソックスの流行の縛りもなく逆に短かったりと、現代の「快適さ」も感じられます。 街へ出るよりSNSでつながる現代街へ出るよりSNSでつながる現代 こうした変化について筆者が思うのは、制服自体がもう誰かに見せるためや見られるために存在するのではなく、また学校以外の集団に属するために着崩すものでもなくなり、あくまでも自分自身が快適に過ごすための存在へと変わってきているのではないか、ということです。 そしてその変化の背景にあるのは、「街」や「女子高生という肩書」に、もうそれほどこだわる必要がなくなっているのかもしれない、ということです。 現に2008(平成20)年以降のティーン雑誌を見ても、筆者の頃と比べて「制服特集」は驚くほど少なくなっています。 基本的にフォーカスされているのは、私服の着こなしやメイクの仕方などの特集が多いという印象。 90年代後半にあった「街」で過ごすためにある細かい制服ルールはすでにそこにはなく、集団に同化するためではない個人のセンスを磨くための情報が、今の雑誌の誌面にはあふれています。 特に「休日の私服特集」などが組まれているのを見ると、彼女たちが重視する時間の比重が変わって来ているのを感じます。90年代後半、筆者が放課後に「街」でダラダラ過ごしていた学校の延長戦のような時間を、今の女子高生たちは別のことに充てているのでしょう。 これは特に「街」がつまらなくなったとかいうことではなく、ストリートカルチャーがSNSへと移行したのもありますし、わざわざ「街」に繰り出さなくても楽しめるモノはたくさん増えました。 また「街」で知り合いをつくらなくても、もっと効率よく共通の趣味の友人をつくれるようになった、といった時代の変化も影響しているのだと思います。 いつの時代も「快適さ」を求めていつの時代も「快適さ」を求めて「女子高生」というブランドに誰もが溶け込もうとしていた90年代後半と比べると、現代は「女子高生」という肩書以前に、個々人の固有性や個性がより重要になっているのかもしれません。 制服についても着崩すことそのものを目的とせず、自分にとって過ごしやすい「快適さ」をより合理的に見いだしている感があります。 筆者の時代の制服も当人たちにとっては快適だった、と前述しましたが、現代の制服は、さらに自分の時間と学校生活とのバランス感覚を磨いた結果の表れのように思います。そして放課後の時間を過ごす場所にも、そのスタイルは大きく左右されているようです。 快適とは何か。突き詰めていけば、制服というもの自体がなくなることが本当の「快適」という考えもありますし、学校指定という限られたルールの中で自分の心地よさに合わせて着崩すことが「快適」という考えもあります。 ただひとつ言えるのは、どちらにせよ、女子高生は自分にとっての「快適さ」のベストバランスを見つけて取り入れることに、いつの時代も非常に卓越しているということ。これからもどんどん彼女たちならではの黄金比率のベストバランスを探り当てながら進化していくだろう、と思います。 SNSなどを通じて自分の個性を主張できるようになった今、もうやたらめったら過剰に「女子高生」を意識して“武装”する必要はなくなっているのです。
- ライフ