上野公園の下に京成上野駅がぽっかりと口を開けて存在している理由

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上野公園の下に京成上野駅がぽっかりと口を開けて存在している理由

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大居候

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上野駅から少し歩いた場所にある京成上野駅は、上野公園の下をくりぬいた形で存在しています。いったいなぜでしょうか。フリーライターの大居候さんが解説します。

背景にある長い苦闘の歴史

 京成上野駅は、JR上野駅から少し離れた場所にあります。徒歩で移動できる距離ですが、JRから乗り換える人の多くは日暮里駅を使うため、少々地味な存在であることは否めません。

 それより気になるのは、駅自体が上野公園の下に建設されていることです。しかも、まるでくりぬかれたような、ぽっかりと口を開けた形で……地下に駅を設けるにしても、なかなか珍しい構造です。なぜこのような場所にあるのでしょうか。その背景には京成電鉄の長い苦闘の歴史がありました。

『京成電鉄五十五年史』をひも解く

 京成電鉄は、20世紀初頭に全国へと広がった「電気鉄道ブーム」のなかで計画された路線でした。当時は、神社仏閣への参拝がメジャーな行楽とされていた時代。新時代の交通機関である電気鉄道を建設し、参拝客で利益を上げようと多くの人がもくろんでいました。こうして盛り上がった計画のなかにあったのが、成田山への参詣客の輸送です。

 京成電鉄の歴史は1903(明治36)年、当時の東京市本所区押上~千葉県印旛郡成田町間の計画出願から始まります。その後特許を取得し、1909年に京成電気軌道が設立されます。

 さてここで疑問が。都心部から外れた押上(現・墨田区)が、なぜ東京側の起点となったのでしょうか。

台東区上野公園にある京成上野駅(画像:写真AC)



『京成電鉄五十五年史』(京成電鉄、1967年)によると、その理由は

・都心から千葉、成田方面へのルートは総武線の両国駅があるため
・繁華街だった上野、浅草方面への連絡を容易にするため

とされています。

 また上野・浅草方面への連絡について、

「この方面との連絡を予(あらかじ)め念頭に置き、万一、不可能な場合は東京市街鉄道(現都電)への乗り入れで」

と書かれています。

 京成電気軌道の軌間(鉄道線路の2本のレール間隔)は、1959(昭和34)年まで路面電車と同じで、自社で路線を建設できない場合は、路面電車に乗り入れて上野・浅草に向かおうと考えていたのです。

 そのため、京成電気軌道の車両には路面電車が使用するトロリーポール(トロリー線から電力の供給を受ける棒)も設置されていました。

6度もわたって繰り返された乗り入れの出願

 既にターミナルとなっていた両国駅と離れたルートで都心へのアクセスを目指していた京成電気軌道は1912(大正元)年11月、押上~江戸川間、曲金(現・京成高砂)~柴又間を開業します。

京成上野駅の位置(画像:写真AC)



 しかし東京市は開業前年、路面電車を買収し東京市電を設立。その方針は市内の交通を市電や市バスでまかなう「市内交通市営主義」が主流だったため、路面電車に乗り入れての市内への接続は困難になりました。

 いきなり困難に遭遇した京成電気軌道ですが、事業は発展していきます。1921年には船橋~千葉(現・千葉中央)間まで開業。まだ非電化だった省電(当時の鉄道省が管理・運営していた電車)より需要がありました。

 経営が安定すれば、目指すのは都心への乗り入れです。最初に出願された計画は1923年に、荒川駅(現・八広駅)から分岐して上野へ向かうという路線でした。

 しかし関東大震災が発生し、その後の復興計画が優先されたため、計画はあえなく中止に。成田方面への建設が進む一方で、都心への乗り入れは困難を極め、出願は6度にもわたって繰り返されました。

 最初の出願以降、京成電気軌道では浅草への乗り入れに切り替えて何度も申請を行いましたが、市電の利益保護を優先する東京市会は容易に認めようとしませんでした。

 一方、隣接する東武鉄道は1931(昭和6)年に浅草雷門駅(現・浅草駅)を開業し、乗り入れを果たします。とはいえ、東武鉄道が優位に立ったというわけではありません。東武鉄道も本来は上野までの路線を望んでいましたが、認められていなかったのです。

 京成電気軌道も同年、浅草乗り入れを認められますが、皮肉なことに認められたときにある巨大スキャンダルが発生、乗り入れを果たすことができない状態になっていました。

都心への乗り入れを断念せず

 しかし、京成電気軌道は都心への乗り入れを断念しませんでした。

 そんなところに、またとないチャンスが巡ってきます。筑波高速度電気鉄道という投機目的鉄道事業者が既に得ている路線免許の売却を持ちかけてきたのです。その路線は上野へ向かっていました。この免許を得て、ついに京成電気軌道は上野への延伸を果たすことになります。

 このとき、現在の位置に上野公園駅の名称で駅が建設されることになりました。なぜ上野公園の下に駅を建設することになったのか明確な理由はわかっていません。

 国立国会図書館(千代田区永田町)のデジタル資料で1929年2月12日付の官報(国の公告のための機関紙)を見ると、筑波高速度電気鉄道が得た免許の起終点は

「東京市下谷区上野公園地」

とあるため、京成電気軌道が決めたのではないことはわかります。

 既に繁華街になっていた上野で駅を設置できそうなのがここしかなかった、あるいは前述のように東京市内に私鉄が入ってくることへの拒否感があったことなどが想像できますが、決定打となる資料は見当たりません。

 さて無事に免許を得たものの、上野への延伸工事は簡単ではありませんでした。上野の山の下に路線を建設するにあたって、一部が御料地(皇室の土地)だったことから、御前会議(天皇の出席のもとに行われた合同会議)が開かれ、許可を得ることに。また公園の下を掘る際、桜の根を傷つけてはならないといった難題もありました。

京成上野駅の面する中央通りの風景(画像:(C)Google)



 あらゆる困難を乗り越えて上野公園の下に京成上野駅が開業したのは、1933(昭和8)年12月のことでした。

 会社設立以来の夢を果たしたことが感慨深かったのか、上野の山の北、京成上野駅へと接続するトンネルに入る場所には、4枚の御影石を使った「東臺門(とうだいもん。上野の山の意味)」と書かれた初代社長・本多貞次郎の額が掲げられています。

 電車のスピードは速いため、額は一瞬しか見られませんが、そこには都心への乗り入れを果たした不屈の魂が込められているような気がします。

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