蒲田はなぜ「映画の街」となり、そしてひっそり消えていったのか
2019年12月3日
知る!TOKYO東京・蒲田にかつて映画スタジオがあったことをご存知でしょうか? その名も「松竹蒲田撮影所」。1936年の撤退まで日本映画の名作を数々と送り出してきました。そんな松竹蒲田撮影所の変遷について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。
大東京周辺の「最後の開拓地」だった蒲田
蒲田といって、思い出すのは『蒲田行進曲』です。深作欣二監督が1982(昭和57)年に映画化した、つかこうへいさんの戯曲のタイトルとして知られますが、もともとは歌のタイトル。1929(昭和4)年に日本コロムビアからレコードが発売された流行歌なのです。「♪虹の都光の港キネマの天地」という歌の旋律は、今でもJR蒲田駅の発車ベルにも使われています。

この歌の由来となった映画スタジオ「松竹蒲田撮影所」が誕生したのは1920(大正9)年です。もとは、演劇興行を行っていた現在の松竹(中央区築地)の前身である松竹合名会社が、映画製作・配給を担う松竹キネマ合名社を設立したのは同年2月。いくつかの候補地の中から、当時の東京府荏原郡蒲田村に撮影所を設けることが決まりました。
蒲田が選ばれた理由は、鉄道もあり交通の便がよいにも関わらず、開発が遅れており広い土地が手に入ったからです。既に明治末期には現在の品川区や川崎市には多くの工場が建ち並ぶようになっていましたが、現在の大田区近辺は漁業が盛んだったこともあり、工場の進出が遅れていました。いわば、発展する大東京周辺の「最後の開拓地」だったわけです。
撮影所がやってきたのも、その開拓地に次々と工場がやってきた頃でした。それまで沿岸は漁村、内陸部は農村だった風景は明治末期から大正半ばの十数年でガラリと変わりました。このことは『大田区史』に、「田螺(たにし)や胡瓜(きゅうり)を見なれた土地ッ子を驚かすこと夥(おびたた)し」だったと記されています。
今でこそ蒲田は町工場の建ち並ぶイメージが強いですが、戦前はモダンな街として見られていました。その理由は、松竹蒲田撮影所の存在にありました。1923(大正12)年に関東大震災が発生し、蒲田も少なからず被害を受けました。しかし、震災の少し前にオープンしていた蒲田最初の百貨店「松芳」はすぐに営業を再開。その年末には店舗数15店舗の、今でいう複合ビルである大正マーケットが開店しています。
震災後に郊外へと引っ越す人が増える中、蒲田にも多くのサラリーマンが住むように。こうして撮影所の周辺は深夜まで賑わう店が増え、いわゆる「業界関係者」などは、同じく新時代の街として人気だった新宿との間をタクシーを飛ばして行き来しつつ楽しんでいたともいいます。

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