蒲田はなぜ「映画の街」となり、そしてひっそり消えていったのか

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蒲田はなぜ「映画の街」となり、そしてひっそり消えていったのか

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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東京・蒲田にかつて映画スタジオがあったことをご存知でしょうか? その名も「松竹蒲田撮影所」。1936年の撤退まで日本映画の名作を数々と送り出してきました。そんな松竹蒲田撮影所の変遷について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。

大東京周辺の「最後の開拓地」だった蒲田

 蒲田といって、思い出すのは『蒲田行進曲』です。深作欣二監督が1982(昭和57)年に映画化した、つかこうへいさんの戯曲のタイトルとして知られますが、もともとは歌のタイトル。1929(昭和4)年に日本コロムビアからレコードが発売された流行歌なのです。「♪虹の都光の港キネマの天地」という歌の旋律は、今でもJR蒲田駅の発車ベルにも使われています。

松竹キネマ撮影所跡地は再開発され「アロマスクエア街区」に(画像:(C)Google)



 この歌の由来となった映画スタジオ「松竹蒲田撮影所」が誕生したのは1920(大正9)年です。もとは、演劇興行を行っていた現在の松竹(中央区築地)の前身である松竹合名会社が、映画製作・配給を担う松竹キネマ合名社を設立したのは同年2月。いくつかの候補地の中から、当時の東京府荏原郡蒲田村に撮影所を設けることが決まりました。

 蒲田が選ばれた理由は、鉄道もあり交通の便がよいにも関わらず、開発が遅れており広い土地が手に入ったからです。既に明治末期には現在の品川区や川崎市には多くの工場が建ち並ぶようになっていましたが、現在の大田区近辺は漁業が盛んだったこともあり、工場の進出が遅れていました。いわば、発展する大東京周辺の「最後の開拓地」だったわけです。

 撮影所がやってきたのも、その開拓地に次々と工場がやってきた頃でした。それまで沿岸は漁村、内陸部は農村だった風景は明治末期から大正半ばの十数年でガラリと変わりました。このことは『大田区史』に、「田螺(たにし)や胡瓜(きゅうり)を見なれた土地ッ子を驚かすこと夥(おびたた)し」だったと記されています。

 今でこそ蒲田は町工場の建ち並ぶイメージが強いですが、戦前はモダンな街として見られていました。その理由は、松竹蒲田撮影所の存在にありました。1923(大正12)年に関東大震災が発生し、蒲田も少なからず被害を受けました。しかし、震災の少し前にオープンしていた蒲田最初の百貨店「松芳」はすぐに営業を再開。その年末には店舗数15店舗の、今でいう複合ビルである大正マーケットが開店しています。

 震災後に郊外へと引っ越す人が増える中、蒲田にも多くのサラリーマンが住むように。こうして撮影所の周辺は深夜まで賑わう店が増え、いわゆる「業界関係者」などは、同じく新時代の街として人気だった新宿との間をタクシーを飛ばして行き来しつつ楽しんでいたともいいます。

数々の名作が生み出された撮影所だった

 そんな松竹蒲田撮影所で製作された映画は約1200本。田中絹代の主演で製作された『伊豆の踊子』や、小津安二郎の初期作品『大人の見る繪(え)本 生れてはみたけれど』など、映画の歴史に興味ある人なら観たことはなくても知っているという作品が数多く撮影されました。

 そして、日本初の本格的トーキー映画である五所平之助監督の『マダムと女房』が製作されたのも、松竹蒲田撮影所でした。トーキー映画とは、今では当たり前の声が出る映画のこと。製作されたのは1931(昭和6)年。アメリカで初の本格的なトーキー映画『ジャズ・シンガー』が製作されたのは1927年ですから、わずか4年で追いついたのです。

 さて、トーキー映画の誕生は映画業界に激震をもたらします。いつの世でも新技術に対してネガティブな見方をする人はあるもので、トーキー映画も当初は「そんなものが流行るはずはない」と思われていました。普及して僅か20年足らずなのにサイレント映画は、それだけで完成した形式と思われていたわけです。

 サイレント映画とトーキー映画は同じ映画のように見えて、まったく違います。なにしろ、俳優がその場で演技して声も録音されるわけです。アメリカのミュージカル映画『雨に唄えば』でも描かれていましたが、このために第一線から消えていく俳優も数多くいました。見栄えも演技もよいのに声がガラガラ声ではトーキー映画には出演などできようもなかったのです。

 しかしその後、松竹蒲田撮影所で映画を撮影することは不可能となりました。映画はカメラが回り始めたら雑音を出してはいけません。しかし撮影所の周囲は工場だったのです。こうして1936(昭和11)年、松竹蒲田撮影所は閉鎖されて松竹大船撮影所(2000年閉鎖)へと移転していったのです。

2000年に閉鎖した松竹大船撮影所の跡地(画像:(C)Google)



 その跡地は高砂香料工業に売却され、工場も姿を消し現在は1998(平成10)年に竣工したニッセイ・アロマスクエアと大田区民ホール・アプリコ(以上、大田区蒲田5)になっています。

映画館すらなくなった蒲田

 それでも現代でも唄われている『蒲田行進曲』の存在もあり、蒲田 = 映画のイメージは続いています。

 しかしその蒲田からも2019年、ひっそりと映画の灯火が消えました。蒲田に最後まで残っていた映画館である「テアトル蒲田」「蒲田宝塚」が相次いで閉館したのです。

在りし日の「テアトル蒲田」「蒲田宝塚」。2018年11月撮影(画像:(C)Google)



 このふたつの映画館は終戦後にオープンしたものですが、21世紀になっても昭和の香りがたっぷりな映画館でした。なにしろ、使うことは少ないとはいえ二階席がある、ただそれだけで古き良き映画の香りがあったものです。なにしろ、映画館が入る建物の名前は「東京蒲田文化会館」。味のある蒲田の商店街のアーケードの中で100円ショップなどの入っている雑居ビルという具合でした。

 この蒲田最後の映画館は、ただそこに存在しているだけで安心感があったものです。しかし風景に馴染んではいるがゆえに、足を運ばれなくなっていたのでしょうか。もう、二度とは作ることができなそうな映画館。その建物が、これからどうなっていくのか気になります。

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