国分寺「恋ヶ窪」の「恋」って何? 由来はロマンチックか、はたまたそうではないのか

国分寺市の恋ヶ窪エリアは「恋」というロマンチックな名前のインパクトから、多くの人に知られています。この「恋」は本当に「恋愛」の「恋」なのでしょうか。フリーライターの小西マリアさんが解説します。


由来はさまざま

 全国には「恋」の字がつく地名は15か所、駅名は四つあるそうです。東京には、それぞれ1か所ずつあります。

 それは、国分寺市の恋ヶ窪。地名は「東恋ヶ窪」「西恋ヶ窪」。駅名は西武国分寺線「恋ヶ窪駅」(同市戸倉)です。

国分寺市戸倉にある恋ヶ窪駅(画像:(C)Google)



 さて、「恋」という文字が入るだけでなんだかロマンチックですが、果たして由来は「恋」や「恋愛」に関係しているのでしょうか。

 実のところ、その由来にはさまざまな説があります。

 ある説では「峡が窪(かいがくぼ)」、すなわち「狭いくぼ地」を意味する名前だったのが次第になまって「鯉」になり、当て字で「恋」の字に変わったというもの。

 あるいは、湧き水のあるくぼ地に飼われている鯉を使った料理が旅人に評判となり「鯉ヶ窪」と呼ばれていたのがなまったというもの。

 はたまた、武蔵国府(こくふ。各国に置かれた役所)の近くにあったくぼ地なので「国府ヶ窪」と呼ばれていたのが、なまったというもの。

 にぎやかな宿場があり、遊女も大勢いて栄えていたことから、最初から恋ヶ窪と呼ばれていたというものまで。とにかく地名の由来はたくさんあります。

 武蔵国府は現在の府中市宮町2丁目で遺跡が発見されているため、「国府ヶ窪」という由来は距離が遠いため「ナシ」でしょうが、ほかの説はどれも有力な印象を受けます。

「もともと恋ヶ窪」が有力説?

 この地に残る伝説は、「最初から恋ヶ窪だった」説を後押しするものとなっています。

 源平の合戦(1180~1185年)の頃、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を所領とする畠山重忠という武士がいました。

 重忠は、後に「坂東武士の鑑(かがみ)」と言われるほどの清廉潔白な人物。もともとは父の代から源氏の家来になっていましたが、源義朝が平治の乱(1159年)に敗れた後は平家に従っていました。

 その後、源頼朝が挙兵すると、最初は平家に味方していたものの、頼朝に従うことを決め、先祖が源義家から賜ったと言われる源氏の白旗を持って帰参。頼朝を喜ばせたといいます。

 こうして平家追悼のために西国に出陣することになった重忠には、恋ヶ窪の遊女・夙妻太夫(あさづまだゆう)という恋人がいました。

 太夫は重忠の無事を毎日祈っていたのですが、横恋慕する男から重忠が戦死したという嘘を告げられます。

 それを悲嘆した太夫は、現在の西恋ケ窪にある「姿見の池」へ身を投げてしまったのです。哀れんだ村人は遺体を葬り、松を植えたところ、松は一葉だけになってしまいました。

国分寺市西恋ヶ窪にある「姿見の池」(画像:(C)Google)



 その後、太夫の死を知った重忠は供養のために無量山道成寺という寺を建て阿弥陀如来立像を安置しました。そして、金仏を造らせて太夫をとむらったのです。

 無量山道成寺は現在残っていませんが、金仏は善明寺(府中市本町)に伝わっています。

 また東福寺(国分寺市西恋ヶ窪)の境内には、一葉松と由来を記した碑が立っています。現在の松は1983(昭和58)年に植えられた3代目で、とても若々しく茂っています。

にぎわいから300年後に訪れた僧侶

 さらに、近くの熊野神社(同)には、京都にある聖護院(しょうごいん。天台宗本山派修験道の総本山)の道興准后(どうこうじゅごう)が1486(文明18)年にこの地を訪れた際に詠んだ

「朽ち果てぬ名のみ残れる恋が窪 今はた問ふもちぎりならずや」

という歌碑があります。

国分寺市西恋ヶ窪にある熊野神社(画像:(C)Google)

 道興准后は天皇を補佐する関白・近衛房嗣(このえ ふさつぐ)の子で、聖護院の門跡だった人物です。

 この旅は末寺の掌握が目的でしたが、道興准后は京都をたった後に日本海側を越後まで向かい、その後に武蔵国に到着。さらに奥州も回ったといいます。

 そんな長旅の途中に寄った恋ヶ窪は既に往時のにぎわいもなく、武蔵野の自然の中に埋もれていたことがこの歌からわかります。

 この伝説は長らく伝えられてきたようですが、鯉料理が食べられ、遊女もいるにぎやかな宿場「鯉ヶ窪」が、伝説が広まるとともに名前を変えたと考えるのが自然のようです。

地名の由来をより深く調べると……

 果たして、この悲恋伝説がどこまで真実なのかはわかりません。ただ、重忠がこのような伝説を作られるほどの人物だったことは確かです。

 鎌倉幕府の成立後に、重忠は幕府創業の功臣(こうしん。国や主君に功績のあった家来)として重く用いられます。政治的な野心はなく忠実な人物だったようですが、頼朝の死後に実権を握った北条時政から疑われ、討たれました。

 そむこうとする心のない人物とされていた重忠が討たれたことは、当時も衝撃的な事件だったようで、当時の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』では、これが北条政子・義時が父である時政を追放する理由づけだったとして記しています。

鯉料理のイメージ(画像:写真AC)



 このように歴史のロマンがある恋ヶ窪という地名。しかし、地名の由来をより深く調べると、まったくロマンのない話も見えて来ます。

「鯉」という言葉は「クエ」「コエ」とい言葉とともに、古語の「崩ゆ(くゆ)」がなまったもので、崖が崩れたような地形を指す言葉として使われる例も多くあるからです。

 世の中、意外とロマンなんてない――それも歴史の真実なのでしょうか。


【地図&航空写真】平成~明治初期 「恋ヶ窪」はどのように変わった?

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