窪地をつくった蟹川
新宿駅周辺は普段歩いていて、土地の高低差をあまり感じませんが、実は台地の上にあります。駅周辺の標高がいかに高いかは、銀座方面から皇居のお堀をぐるっと巡って、四谷方面に向かうとよくわかります。
皇居ランナーでもない限り、あまり足を運ぶ機会のないエリアですが、桜田濠に沿った三宅坂(みやけざか)周辺から四谷方面を見るとかなりの急坂になっています。
さて、そんな新宿の街の始まりは江戸時代の宿場町・内藤新宿で、甲州街道沿いに開かれました。甲州街道は当時の幹線道路で、尾根筋のもっとも土地のしっかりした部分を通っていることが現在の地図からもよくわかります。
そんな台地の周辺にはいくつもの川筋があり、そのなかでも現在の歌舞伎町を突き抜ける形で流れていたのが蟹川(かにがわ)です。
連載10回目となった前回の記事「新宿区『大久保』の名前の由来を知ってる? 駅周辺は平地なのに、なぜ『くぼ』なのか」で、大久保の地名の由来とされた窪地を調べましたが、この窪地をつくった川が蟹川なのです。
尾州藩の下屋敷から流れていた蟹川
戸塚町誌刊行会が編さんした『戸塚町誌』(1931年発行)に、蟹川に関する記載があります。
「太田道灌の狩に出でし地として人口に膾炙(かいしゃ。広く知れわたること)す。金川、加奈川、加二川ともかかれている、下戸塚尾州藩戸山の池より発し馬場下を過ぎ、早稲田村中村郷を経て、牛込山吹町小日向松ヶ枝町を経て江戸川に入る。一名戸山山落ともいう」(一部現代語に修正)
「尾州藩戸山の池」とは江戸時代にあった尾張藩の下屋敷で、その土地は北は現在の新宿区西早稲田1丁目から2丁目まで、南は新宿7丁目から若松町までかかる広大なものでした。
『戸塚町誌』の記述に基づけば、屋敷内にある池から流れ出た川がいったん南に下り、そこから東へ。再び方角を変えて北へ。そして最後は神田川(江戸川)に流れ込んでいたということになります。
そんな蟹川ですが、果たして現代に痕跡を見つけることができるのでしょうか。
地図をよく見ると……
国土地理院の地図の透過率などを調整してみると、わずかに痕跡が浮かび上がってきました。よく見ると、西武新宿駅前から東に向かってわずかに谷になっているような地形が見られます。
その地形は、ちょうど歌舞伎町の真ん中を東西に走る「花道通り」辺りです。北側の戸山方面からの流れを示す痕跡は見つけられませんが、確かに現代にも川の流れは残っているのです。
江戸時代、歌舞伎町一帯には肥前国(現在の佐賀県と対馬・壱岐を除く長崎県)大村藩の屋敷があり、「大村の森」と呼ばれる沼地が鴨(かも)猟を行う場所として知られていました。
蟹川はそうした沼地の水を取り込んで流れていましたが、東の窪地へと向かう流路の高低差を見るに、かなりの急流だったことがうかがえます。
靖国通り近くの東西に細長く開けた土地
どうにかして川の流れを見つけられないかと、1909(明治42)年の地図を見たところ、現在の靖国(やすくに)通り沿いに面した辺りにある大村邸の北側の土地が東西に細長く開けていることに気づきました。
地図上では判然としませんが、現在の新宿文化センター(緑色部分)の北側、すなわち窪地に入ったところに1本の線(水色部分)で書かれている川の流れとつながっていると考えるのが自然かもしれません。
別の資料で湧いた疑問
さて、この記事を書くにあたって追加で調査を行ったところ、前出の『戸塚町誌』に記述されていた
「尾張藩の下屋敷が水源」
が誤りではないかという疑問が出てきました。
このエリアは江戸時代から栄えていたこともあり、地図も多く残っています。江戸・明治・大正・昭和の地図を収録した『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』(1984年、東京都新宿区教育委員会)を見てみましょう。
まず見つけたのは、明治10年代に作成された「武蔵国豊島郡東大久保村地引絵図」です。ここには、現在の歌舞伎町に蟹川の流れが明確に記されています。
ちなみに地引図とは、明治政府の地租改正にともない土地利用の実態を把握するために製作された図面のことです。
ただ、ここに書かれた蟹川は北からではなく西から流れてきています。図面では現在の山手線辺り(図面左に「鉄道敷地」と書かれています)で止まっています。
真の水源はどこにある?
さらに、1914(大正3)年に作成された「大久保町市街地図」では蟹川は山手線と中央線のさらに先、現在の西新宿7丁目付近から流れが始まっているように描かれています。
となると『戸塚町誌』はまったくの誤りで、尾張藩下屋敷の水源は存在せず、現在の西新宿や歌舞伎町周辺の湧き水から始まったのが、蟹川ということも考えられます。
実のところ、歌舞伎町よりも先の蟹川の流れは現在の道路にも痕跡を残している部分があり、さまざまな資料で言及されています。しかし、水源がどこだったのかはいまいち判然としません。いったい、真の水源はどこだったのか? 今後も調査をつづけていきます。