かつて本土防衛の最前線、島民なき今も胎動する「硫黄島」をご存じですか【連載】東京無人島めぐり(6)
2020年7月19日
知る!TOKYO東京都内に330もある島――その中でも無人島の歴史についてお届けする本連載。6回目となる今回の島は「硫黄島」。案内人は、ライター・エディターの大石始さんです。
戦争映画で史実が広く知られることに
硫黄島と聞くと、太平洋戦争末期、1945(昭和20)年2月から3月にかけて繰り広げられた「硫黄島の戦い」を思い起こす方も多いかもしれません。

硫黄島は、米軍がB29爆撃機の基地としていたマリアナ諸島と日本本土の中間地点にあたるため、本土防衛の最前線と位置付けられ、日米合わせて2万人以上もの戦死者数を出す凄惨(せいさん)な戦いの舞台ともなりました。
また、その史実はクリント・イーストウッド監督作品『硫黄島からの手紙』で取り上げられたことで、広く知られるようにもなります。
硫黄島の戦いが繰り広げられる以前、この島には大規模な集落があり、人々の営みがありました。
島民は太平洋戦争で強制疎開
硫黄島に村制が施行された1940(昭和15)年4月時点での人口は、1051人。
島民たちは太平洋戦争が激化する1944年までに強制疎開を余儀なくされますが、それまでの硫黄島ではどのような生活が営まれていたのでしょうか?
全国硫黄島島民の会が監修した『硫黄島クロニクル~島民の運命~』を参考にしながら、その歴史と暮らしをたどってみましょう。

のちに硫黄島と名付けられることになる島が、スペインの戦艦サン・ファン・デ・レトラン号によって発見されたのは、1543(天文12)年のことでした。
明治に入ると、日米英の間で小笠原の領土問題について論争が盛んになりますが、1876(明治9)年には諸外国に対して小笠原が日本領土と通告。1891年には東京府小笠原島庁管轄となり、同年に硫黄島という島名が定められました。
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