かつて本土防衛の最前線、島民なき今も胎動する「硫黄島」をご存じですか【連載】東京無人島めぐり(6)

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かつて本土防衛の最前線、島民なき今も胎動する「硫黄島」をご存じですか【連載】東京無人島めぐり(6)

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大石始

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東京都内に330もある島――その中でも無人島の歴史についてお届けする本連載。6回目となる今回の島は「硫黄島」。案内人は、ライター・エディターの大石始さんです。

戦争映画で史実が広く知られることに

 硫黄島と聞くと、太平洋戦争末期、1945(昭和20)年2月から3月にかけて繰り広げられた「硫黄島の戦い」を思い起こす方も多いかもしれません。

硫黄島の空中写真(画像:海上保安庁)



 硫黄島は、米軍がB29爆撃機の基地としていたマリアナ諸島と日本本土の中間地点にあたるため、本土防衛の最前線と位置付けられ、日米合わせて2万人以上もの戦死者数を出す凄惨(せいさん)な戦いの舞台ともなりました。

 また、その史実はクリント・イーストウッド監督作品『硫黄島からの手紙』で取り上げられたことで、広く知られるようにもなります。

 硫黄島の戦いが繰り広げられる以前、この島には大規模な集落があり、人々の営みがありました。

島民は太平洋戦争で強制疎開

 硫黄島に村制が施行された1940(昭和15)年4月時点での人口は、1051人。

 島民たちは太平洋戦争が激化する1944年までに強制疎開を余儀なくされますが、それまでの硫黄島ではどのような生活が営まれていたのでしょうか?

 全国硫黄島島民の会が監修した『硫黄島クロニクル~島民の運命~』を参考にしながら、その歴史と暮らしをたどってみましょう。

硫黄島(画像:写真AC)

 のちに硫黄島と名付けられることになる島が、スペインの戦艦サン・ファン・デ・レトラン号によって発見されたのは、1543(天文12)年のことでした。

 明治に入ると、日米英の間で小笠原の領土問題について論争が盛んになりますが、1876(明治9)年には諸外国に対して小笠原が日本領土と通告。1891年には東京府小笠原島庁管轄となり、同年に硫黄島という島名が定められました。

最初の入植は1889年

 1889(明治22)年には父島の船大工、田中栄二郎らが硫黄採掘と漁業を目的に渡航し、最初の入植が行われます。

 1892年から本格的に硫黄採掘事業が開始。採掘された硫黄は、火薬や化学製品の原料として重宝されました。

硫黄島の空中写真(画像:海上保安庁)



 1903年に硫黄の採掘が停止されると、島の産業は平らな土地と地熱を生かした農業へと移行。それとともに小笠原の父島や母島、伊豆諸島の八丈島から移住者がやってきました。

 当時の硫黄島では綿花やサトウキビ、レモングラスのほか、農業用殺虫剤の原料となるデリスも栽培されていました。

コカの葉栽培という歴史の「暗部」

 硫黄島の農地においては、コカインの原料であるコカの葉も栽培されていたといいます。1927(昭和2)年から栽培が始まり、翌年には乾燥場が完成。

 当時の硫黄島ではコカの栽培は合法で、麻酔薬の原料として内地の製薬会社に向けて搬出されていました。しかし、そのかたわらでインドやドイツにも密輸されていたといわれています。

 まさに硫黄島の暗部。その背景については石原俊『硫黄島 国策に翻弄された130年』(中公新書)に詳しく書かれているので、関心のある方は一読をおすすめします。

『硫黄島 国策に翻弄された130年』(画像:中央公論新社)

 なお、前述の『硫黄島クロニクル~島民の運命~』によると、かつて硫黄島には大正農業補習学校の学校農場があり、カブやスイカ、トマト、玉ねぎ、バナナなどさまざまな野菜が栽培されていたほか、女子生徒はタピオカまで作っていたとか。

 同書には「放課後に生徒たちが近くの家々を売り歩いたり、入港中の船の乗組員に土産として買ってもらったりした。中でも綿は予約が出るほどの人気だった」と記されています。

豊かな漁場と奉納相撲

 硫黄島の周囲は豊かな漁場だったことから漁業も盛んでした。

 春にはトビウオ、夏から冬にはムロアジ、夏から秋にはマグロ、サワラ。そうした魚の一部は干物などに加工され、島の貴重な収入源ともなりました。

トビウオ(画像:写真AC)



 毎年7月には島内の墓地で墓参りが行われ、その後の盆踊りも夏の恒例行事だったといいます。

 9月には島の鎮守である硫黄島神社の例大祭が執り行われ、力自慢の若者がぶつかり合う奉納相撲で大きな盛り上がりも見せました。

多くの戦没者の遺骨が今も眠る

 そのような島の暮らしも太平洋戦争の開戦によって途絶えてしまいます。

 現在では海上自衛隊と航空自衛隊が常駐しているほか、旧島民の墓参りも年に2回実施されています。

 1952(昭和27)年以降、硫黄島の戦いによる戦没者の遺骨収集が進められてきましたが、現在も多くの遺骨が眠ったまま。戦没者数の正確な人数さえ判明していないといいます。

硫黄島戦没者の碑(画像:小笠原村)

 島で命を散らしていったさまざまな人々が今も眠る一方で、この島では活発な隆起活動や地殻変動が続いており、現在も火山ガスが噴出しているといいます。

 島民のいなくなった現在もなお、この島は生き続けているのです。

●参考文献:
・小笠原村公式サイト
・『硫黄島クロニクル~島民の運命~』(全国硫黄島島民の会)
・石原俊『硫黄島 国策に翻弄された130年』(中公新書)

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