49年前の今日、日本は「金銀銅」を独占した――1972年札幌五輪 栄光の記憶を辿る

新型コロナウイルス禍に世界中が翻弄される2021年。夏には東京オリンピック・パラリンピックの開催が予定されています。過去のオリンピックが日本中にもたらした感動について、ノンフィクション作家の合田一道さんが49年前の記憶をひも解きます。


コロナ禍、開催めぐり割れる賛否

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2021年夏へ1年間延期となっている東京オリンピック・パラリンピック。

 2021年2月現在、東京など10都府県では緊急事態宣言が延長されています。政府は「安全安心な大会」を開催できるよう準備を進めているといいます。

札幌オリンピックでスキー70m級ジャンプに臨む笠谷幸生選手(画像:合田一道)



 日本国内では過去に3回、オリンピック・パラリンピックが開催されました。1964(昭和39)年の夏季東京大会、1972年の冬季札幌大会、1998(平成10)年の冬季長野大会です。特にアジア初開催となった東京大会は、多くの国民が熱狂し感動に包まれたものです。

 日本勢は、オリンピックで金メダル16、銀メダル5、銅メダル8という成績を残しました。「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールの金メダル、円谷幸吉選手の陸上競技唯一となるマラソン銅メダル獲得など、後の世まで語り継がれる名場面がいくつも誕生しました。

 さて、オリンピックと聞いて筆者(合田一道。ノンフィクション作家)が思い出すのは、札幌市で開かれた第11回オリンピック冬季競技大会です。

 スキー70m級ジャンプで日本人選手が上位を独占し、日の丸が3本、ひるがえった日のことです。日本では1964年の東京夏季大会に次ぎ2回目、冬季大会としてはアジア初となったこの大会。もう間もなく半世紀がたとうとしているというのに、いまだに胸が高まる思いです。

1972年2月6日、競技場は熱気に包まれた

 1972(昭和47)年2月6日は大会4日目を迎え、協議の舞台となる札幌・宮の森シャンツェには朝から2万人を超える観衆が押しかけました。快晴に恵まれ、熱気が充満しています。

 午前10時、競技が始まりました。1本目、外国人選手に交じって5番目に登場した金野昭次選手が、いきなり82.5mを飛んで得点120.2を出しトップに立ちました。

 これを追ってヘンリー・グラス(東ドイツ)、ツァカゼ(ソ連)、ウォルフ(東ドイツ)の強豪が飛びましたが、抜けません(東ドイツは東西統一前、ソ連は現在のロシア)。

 日本2番手の青地清二選手が20番目に登場して、素晴らしいタイミングで83.5mを飛び、初めて金野選手を抜いてトップに立ちました。フォルトナ(ポーランド)、ブリッツ(ノルウェー)、コデシュカ(チェコ)らが相次いで80mを越えますが、青地には及びません。

 日本人3番手の38番藤沢隆選手が、やや踏み切りは遅れたものの81mまで伸ばして3位に食い込みました。その一方、グラフノ(ソ連)、ラシュカ(チェコ)、ケユスケ(フィンランド)らの強豪選手は軒並み振るわず、ヤルグレン(スウェーデン)だけが81mを越えたものの着地が乱れました。

東京オリンピックの開催をめぐりさまざまな意見が出る今、49年前の日本人選手の活躍をもう一度振り返る(画像:写真AC)



 45番は日本のエース笠谷幸生選手。

 飛び出して中盤から重心を移動させる鮮やかなフォームで、84mの最長不倒距離を出して一気にトップに立ったのです。前半戦を終えて、日本勢4人が4位まで顔をそろえたのです。会場の興奮は高まるばかりでした。

日本の冬季五輪で初の金メダル

 2本目に入り、金野選手が踏み切りは少し遅れたものの、うまくまとめて79mをマーク。だが青野選手は踏み切りが早過ぎ、フライトで大きく動いて77.5mにとどまります。藤沢選手はタイミングがずれる失敗ジャンプで68mでした。

 外国勢が日本勢の一角を崩そうと一発を狙いますが、決定打が出ないまま推移し、最後に笠谷選手が登場しました。会場は緊迫した雰囲気が漂い、静まり返りました。

 笠谷が滑り出します。ジャンプ台を飛び出すと、安定した飛型を見せて距離をぐーんと伸ばして着地しました。飛距離は79m。優勝、金メダル! しかも2、3位も日本勢が独占したのです。大観衆はどよめき、喜びを爆発させ、興奮のるつぼと化しました。

 日本が冬季オリンピックに参加して以来、44年後に獲得した初の金メダルでした。

 表彰式に移り、国歌が流れ、3本の日の丸が青く澄んだ空にひるがえりました。笠谷を真ん中に右に金野、左に青地。みんな笑顔ですが涙が頬を濡らしています。観衆も、誰もが涙、涙です。

 この日の北海道新聞は地元紙だけに、笠谷選手の姿を夕刊に連続カラー写真で掲載しました。新聞がカラー化へ踏み出したばかりの時代で、画期的な紙面と言われました。

 この写真を撮影したのが同社の後山一朗カメラマンです。

「『流し撮り』といってジャンプルする選手を体で追いながら続けて撮影する方法です。露出を計算し、125分の1で1枚1枚、シャッターを切りました。笠谷が着地した瞬間、勝ったと思いました」

 当時の高揚感がよみがえってくるようです。

金メダリストが後に残した言葉

 この試合から5日後の1972(昭和47)年2月11日、大倉山シャンツェで90m級ジャンプの競技が行われ、こちらにも大きな期待が寄せられました。しかし、意外にも日本人選手は笠谷選手も含めて振るわず、メダルを逃してしまいます。

 地の利もあり、実力もあるのになぜ勝てなかったのでしょうか。笠谷選手と後年、会ったときにこの話をすると、ジャンプ台を吹く風の話や、それによる微妙な影響、心理状態などを挙げた後、こう述べたのです。

大倉山ジャンプ競技場にある、札幌オリンピックをたたえる歌碑(画像:合田一道)



「負けたのは、実力がなかったということでしょう。しょせんは自然との戦い。自然に勝てなければ人間にも勝てない。そういう世界なんです」

 金メダリストならではの重い言葉として、受け止めたものでした。

 あれから49年の歳月が経過しました。いま札幌市内を走る市営地下鉄の駅ホームに立つと、電車が到着する直前に「虹と雪のバラード」の曲が流れます。東京オリンピックの開催を控え、あらためて札幌オリンピックを開催した当時をたたえるため2019年から導入されたものです。

 開催の可否についてはさまざまな意見があるようですが、もし開催されれば、また感動の名場面がいくつも生まれることでしょう。


【画像】日本が1~3位を独占 当時の新聞を見る

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