東京の喫茶店が激増したのは関東大震災後から 混乱の日々を癒した驚きのサービスとは

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東京の喫茶店が激増したのは関東大震災後から 混乱の日々を癒した驚きのサービスとは

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本間めい子

フリーライター

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日本で初めて喫茶店ができたのは1888年のこと。その後、関東大震災をきっかけにその数を増やしていきます。フリーライターの本間めい子さんが解説します。

1年で55軒から159軒までに増加

 東京の喫茶店の始まりは、1888年(明治21)年に開業した「可否茶館(かひさかん)」とされており、台東区上野には「日本最初の喫茶店『可否茶館』跡地」の碑が立っています。

レトロな喫茶店のイメージ(画像:写真AC)



 東京で喫茶店が数を増やしたのは、1923(大正12)年に発生した関東大震災後とされています。

『東京市統計年表』には1898(明治31)年以降の喫茶店の数が記されており、これによると、1898年には戦前の東京市の旧市部(1932年以前の東京15区)に69軒だった喫茶店が、1940(昭和15)年には2867軒にまで増えています。そのなかでも特に1923年から1924年までで、55軒から159軒へと急増しているのです。

なぜか喫茶店だけが増加

 建築史家・初田亨さんは著書『繁華街の近代 都市・東京の消費空間』(東京大学出版会、2004年)のなかでこの増加に言及し、

「関東大震災で数多くの建物がなくなっていること、さらにバラック以外建てることの難しかった当時の状況を考えると、いかに増えたかがわかる」

と記しています。

 また喫茶店と同じように「警察取締ヲ要スル諸営業」とされた料理店や飲食店が1923年にすべて減っているにもかかわらず、喫茶店だけが増えていることにも言及しています。

『繁華街の近代 都市・東京の消費空間』(画像:東京大学出版会)

 初田さんは著書のなかで、喫茶店だけが増えた理由を明確に語っていませんが、理由を考察できるヒントには出会えます。

 震災後の喫茶店の発展を記した部分では、

「昭和の初めには、喫茶店は友達と語らう場、休むことのできる場、大衆的な社交場として利用されていたのである」

としています。

 おそらくは混乱の続く慌ただしい日々のなか、料理店ほど腰を据えられないが、少し落ち着けたり、人と語らったりできる場として喫茶店が受けたのではないかと想像できます。

当時のデートマニュアルに載っていたお店とは

 こうして発展していった1923年以降の喫茶店ですが、実際にどういった場所だったのでしょうか。

 それを知る手がかりとなるのが、1935(昭和10)年に丸之内出版社から出た『らんでぶうのあんない 流線型アベツク』という本です。本書は前述の初田さんの著書でも引用されており、その書名にインパクトがあるせいなのか、インターネットで検索すると内容について言及する人がちらほら。

 この本はいわばデートマニュアルなのですが、そのなかに銀座・新宿のアベック(男女のふたり連れ。カップル)が使える新宿と銀座のお店案内が掲載されています。

新宿区新宿にある「新宿高野本店 タカノフルーツパーラー&フルーツバー」(画像:(C)Google)



 まず、新宿の軽食と喫茶のお店案内について見ると「高野フルーツパーラー」を見つけました。現在も若いカップルが多い同店は、当時も同じだった様子。

「あかあかと灯るシャンデリアの下に安くて盛りが良くて、中身の楽しみなフルーツコンサート(20銭)が人気です」

とあり、フルーツコンサートは、

「リンゴ、ミカン、アップル、桃、柿、スイカ、つまりフルーツの盛り合わせ、夏の頃はシャーベットが円くドームのようにのっています」

と具体的に書かれています。

 現代でもフルーツバーが人気の同店ですが、「盛りが良くて」がどれほどのものだったのか気になります。

 続いて、三越の裏にあったのがカルピスの経営する喫茶店「カッピー」です。「シングル、カットの少女ボーイに迎えられて、ぐんぐんお二階へ」とあります。レコードを流すスペースやステージもあったそうで、いわば当時最先端のおしゃれ喫茶店ということでしょう。

 カルピスを使ったメニューが多いと思いきや、同書がすすめているのは、なぜか

「エビどん(20銭)つまりエビの天丼、瀬戸の小丼にエビが三匹御飯は軽く二杯位」

とのこと。

 さらに「ショパンのレコードを聴きながら、番茶、塩せんべい(10銭)などをポリポリかじるなんかも乙です」と。このことからも、戦前のおしゃれ感覚は現代とまったく異なったものだったことがわかります。

プラスアルファが重視されていた昭和初期

 一方、銀座の記述を見てみると「昨年あたりから喫茶店の名に『茶房』と云うのが目立ってきた」とあります。これは現代のおしゃれな店が「○○カフェ」と名乗るようなものでしょうか。

「茶房」のついているお店を見てみると、西銀6丁目(現在の銀座6丁目の一部)の「南蛮茶房」というお店が載っており、

「南蛮より南欧情緒に意匠を凝らす」
「6人の振袖ガールも純日本娘でしとやか」
「コーヒー紅茶よりビールが売れて」

とありました。どうも喫茶店としてオープンしたところ、アルコールを出す夜の営業の方がもうかっているという印象を受けました。

 続いて、銀座2丁目にあった「都茶房」。こちらは、かなり豪華な喫茶店だったようで、東京でも1台しかない蓄音機「1935年型RCAビクター」を設置し、名曲のレコードもそろっているとしています。しかも「ユニホームの喫茶嬢とセミイブニングのレコードガール」とあるので、豪華なぶん、店員の人件費も相当なものだったのかと想像します。

昭和初期の喫茶店イメージ(画像:写真AC)



 このように当時の喫茶店は、コーヒーを飲んだり、軽食を食べたりするだけではない、プラスアルファが重視されたものだったようです。文字から想像される、現代にはない華やかな雰囲気を一度は体験してみたいものです。

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