幕府軍艦に集う関係者の子孫たち
「咸臨丸(かんりんまる)子孫の会」はその名が示す通り、江戸幕府の軍艦・咸臨丸に関わった人たちの子孫で組織された会です。
『咸臨丸 栄光と悲劇の5000日』(北海道新聞社刊)という本を書いたのが縁で筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は特別会員になり、思いもかけず歴史上の人物の末裔(まつえい)の方々と知り合いになりました。
咸臨丸が太平洋を横断したときの軍艦奉行の木村摂津守喜毅、教授方頭取(艦長)の勝海舟の末裔をはじめ、教授方(航海長)小野友五郎、教授方(運用科士官)浜口興右衛門、通訳の中浜万次郎、教授方手伝(機関科士官候補生)の小杉雅之進、操練所勤番公用方下役の小永井五八郎……の末裔たちです。
会話をしているうち、いつしかその時代に身を置くような気持ちにさせられるのです。
政府要職を辞した後の海舟
勝海舟のひ孫、五味澄子さん(東京都在住)から面白い話を聞きました。
五味さんの祖母の逸子(海舟の娘)と母の正代(海舟の孫、逸子の娘)が語る思い出話ですが、海舟の人間像が浮かび上がってくるように思えて胸が高鳴りました。
海舟はよく知られているように、幕府が倒れた後、徳川家代表として政局の収拾に当たり、西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城へ導きました。
その後、明治新政府に仕えますが、職を辞した後は悠々自適の暮らしでした。
強面の裏にのぞいた、孫煩悩な一面
五味さんの話によると、
「晩年の勝家は、大きな屋敷に家族が大勢住んでいて、海舟はいつも一室で頼まれた揮毫(きごう)をしていたそうです。便りなどは、寝ころがって書いていましたが、筆扱いは手慣れたものだったといいます」
「幼い正代が学校に行く朝は、必ず海舟のもとへ行ってあいさつをするのです。すると『小僧、行くか』と乱暴な口調で言うので、とっつきにくい、恐ろしい感じで、家中がびりびりしていたそうです」
などと語ってくれました。
でも海舟は、孫が生まれるたびに記念の書を書いて渡していたといい、その書を見せてもらいました。柔らかな筆跡で、子煩悩な側面をうかがわせるものでした。
また海舟は手作りの茶碗を残しており、その見事な出来栄えに驚かされました。
玄孫(やしゃご)、つまり5代目の高山みな子さん(鎌倉市)は海舟研究者として知られていますが、以前、札幌の「北海道龍馬会」の講演会で話した内容が心に残っています。
「なかなかの人物」と称された龍馬
海舟の談話録『氷川清話』の中に、坂本龍馬が海舟を訪ねてきたときの話として、
「彼は俺を殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。なんとなく冒しがたい威厳があってよい男だったよ」
との一文を取り上げる一方で、龍馬が姉・乙女にあてた便りの
「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことのほかかはい(かわい)がられ候」
とを読み合わせて、海舟と龍馬の信頼関係がどれほど深かったかについて述べました。
続いて福沢諭吉が『痩我慢の説』で海舟を鋭く批判したとき、海舟が答えた文面を紹介しました。
「行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。毀誉(きよ)は人の主張、我にあずからず我に関せずと存じ候」
広辞苑によると、行蔵とは「世に出て道を行うこと、隠遁(いんとん)して世に出ないこと、出処進退」とあり、毀誉とは「そしることとほめること」とあります。
つまりこの文面は、出処進退は自分にある、そしるほめるは他人の主張だから、私には関わりのないことである、と述べているのです。筆者の好きな文言のひとつです。
海舟と龍馬の厚き信頼関係
高山さんは、この海舟の言葉に龍馬が詠んだ和歌と共通するものを感じる、として次の和歌を掲げました。
世の人は 我を何とも言わば言え 我がなすことは 我のみぞ知る
万雷の拍手の中、講演は終わりましたが、充実した内容に「わが意を得たり」と思わず心の中でさけんだものでした。
2021年は、咸臨丸の難破150周年
海舟が艦長として乗り込み太平洋を初めて往復した咸臨丸は、その後、戊辰戦争(1868~1869年)が起こると榎本武揚率いる旧幕艦隊に組み込まれて品川沖を脱走します。
だが風波にあおられて難航して駿府清水港に寄港。そこを新政府艦隊に襲撃されて死者が続出し、船体は捕獲されます。
維新後の1871(明治4)年、新政府の輸送船となり、仙台藩白石城の藩士とその家族を北海道へ運ぶ途中、北海道木古内町の更木(さらき)岬沖で難破します。
先年、「咸臨丸 終焉(しゅうえん)一四〇年」を記念して「咸臨丸全国サミット」が開催されたとき、筆者の脚本による演劇「咸臨丸、永遠に」が町民の出演で公演されました。
地元・木古内中学校の生徒たちの管楽器演奏を背景に、勝海舟も、榎本武揚も、ジョン万次郎も登場する楽しい舞台でした。
2021(令和3)年は「咸臨丸 終焉一五〇年」を迎えます。
新型コロナウイルス禍にあえぐ中、あのときの熱演する役者たちの姿を思い浮かべながら、咸臨丸にまつわる人々の心情を重ね合わせています。