80年代初頭の「お茶の水」が原宿・六本木より断然イケてた決定的理由
2020年12月2日
知る!TOKYO東京・お茶の水といえば東京でも有数の学生街。実はこの街はかつて、原宿より六本木よりも若者文化を漂わせる「サブカルの街」と捉えられていた時代がありました。一体いつ頃のことでしょうか。フリーライターの犬神瞳子さんが紹介します。
かつては学生運動が盛んだった街
お茶の水といえば、東京で随一の学生街です。
・中央大学(千代田区神田駿河台)
・明治大学(同)
・日本大学(同区九段南)
・東京医科歯科大学(文京区湯島)
・順天堂大学(同区本郷)
といった大学から駿台予備校や研数学館まで、多くの学校がひしめき合い、学生向けの定食屋や古書店が繁盛している街でした。
その後、中央大学が拠点を郊外に移転するなど変化もありましたが、いまだに学生の街であることに変わりはありません。
そんな学校の多いお茶の水ですから、雰囲気はアカデミック。でも、そんなお茶の水が原宿や六本木に並ぶ若者の街へと変貌しかけた時期もあったのです。

戦前から学生街として栄えたお茶の水かいわいですが、熱く燃えた時代もありました。1970年代初頭までの学生運動が活発だった時代です。
お茶の水といえば「日本のカルチエ・ラタン」と称される街。カルチエ・ラタンとは仏セーヌ川左岸、5区と6区にまたがるパリ大学などの教育機関が集まる学生の街。
1968(昭和43)年5月にフランスで盛んになった五月革命と呼ばれる学生運動のブームに影響を受けて、お茶の水や神田一帯は「日本のカルチエ・ラタンにせよ」というスローガンで盛り上がりました。
当時の記録映像などを見ますと、大学の机や椅子を持ち出して道路を封鎖してバリケードをつくり、機動隊とぶつかり合っていますから、大変な時代もあったものです。
そんな熱い時代も1974年頃になると、すっかり下火になっていました。
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