目黒不動尊周辺が約25年間だけ「花街」として栄えたワケ

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目黒不動尊周辺が約25年間だけ「花街」として栄えたワケ

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県庁坂のぼる

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下目黒の目黒不動尊周辺は、今でも古くからの風情が残るエリアです。このエリアにはかつて花街がありました。フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。

目黒不動尊の創建は808年

 オフィス街として最近活気のある五反田。ただ一口に五反田といっても、そのエリアはとても広いのをご存じでしょうか。特にオフィスの多い西五反田は、JR五反田駅から随分と歩かなければいけないところもあり、実際は東急目黒線の不動前駅の方が近い場合もあります。

 2000(平成12)年に廃止された目蒲(めかま)線時代、目黒線は目黒と蒲田をつなぎ、そのローカルな雰囲気で池上線と争っていたわけですが、今では目黒駅から先が南北線、三田線、埼玉高速鉄道に直通しており、まったく違う路線となっています。

 また相鉄線との相互乗り入れも計画されていることから、沿線の武蔵小山駅前は人気の住宅地になりつつあります。

 そんななか、不動前駅は昔ながらの雰囲気がまだ残っています。山手通りの騒がしさは駅前ではすっかりと消え、居酒屋など夜営業の店も限られているため、日が暮れるとすっかり静かな街になります。

 不動前駅の名前の由来は、目黒区の目黒不動尊(瀧泉寺、目黒区下目黒)です。1923(大正12)年3月に開業したときの駅名は目黒不動尊前駅でしたが、同年10月に不動前駅に改称されました。その理由は、目黒不動尊が地元では「お不動さん」と呼ばれていたため、最寄り駅であることをアピールするためでした。

目黒不動尊(画像:写真AC)



 目黒不動尊は縁起(社寺の由来)によると、創建は808(大同3)年の古寺で、江戸時代には幕府に保護されていました。保護を受けたきっかけは、三代将軍家光が目黒でタカ狩りをしたとき、かわいがっていたタカが迷子になったことだとされています。このときに目黒不動尊の僧侶に祈らせたところ、無事に見つかったことで幕府は代々あつく保護するようになったといいます。

大きなにぎわいを見せる行楽地へ

 寺がにぎわったのは幕府の保護があついだけでなく、行楽地としても優れていたからです。

 この近辺には夕日ヶ丘という景勝地があり、景色がよく富士山を眺められたため、これまで多くの絵師によって描かれています。また周囲には「蛸薬師(たこやくし)」と呼ばれる成就院などのお寺も。少し足を伸ばせば、由緒ある祐天寺も。

歌川広重「冨士三十六景 東都目黒夕日ヶ丘」(画像:演劇博物館デジタル)



 景色を眺めながらいくつものお寺に参詣できる観光地だったこともあり、目黒不動尊の門前はいくつもの店でにぎわいました。現在の下目黒と上大崎にまたがる行人坂(ぎょうにんざか)から目黒不動尊の門前までは、料理屋や土産物屋がぎっしりと並んでいました。

 ただ目黒には遊郭がなかったため、目黒を詣でた江戸の人は品川宿に寄って遊んでいたようです。参詣のあと素通りできない品川宿は「難所」ということで「餅花を 提げて難所へ さしかかり」という川柳も残されています。

 目黒不動尊が栄えたもうひとつの理由は、幕府によって富くじが許可されていたからです。富くじの価格は1朱(1両の16分の1)から1分(1両の4分の1まで)。1等は当初100両でしたが、その後1000両にまで上がりました。当たりくじを決める開札は寺社奉行の立ち会いで、売り出した寺社にて行う決まりのため、開札の日は大勢の人が詰めかけました。

明治以降、寂れた門前町

 こうして江戸時代に行楽地として栄えた目黒不動尊ですが、明治時代の終わり頃から大正時代になると門前町は次第に寂れていきます。というのも、江戸時代に栄えていた不動信仰が衰えて、参詣客がすっかり減ってしまったからです。

明治初期頃に作成された目黒不動尊周辺の旧版地図(画像:国土地理院)

 資料『目黒の近代史を古老にきく2』(目黒区守屋教育会館、1985年)には「明治40年頃までは栄えていた」とありますので、近代化による娯楽の変化が衰退の原因だったのは間違いありません。同地に江戸時代から続く店がないことからも、当時激しく衰退したことがわかります。

 かわって門前町に増えたのは待合や検番(芸者と出先との連絡事務所)で、花街として栄えるようになったのです。花街の規模は大きく、蛸薬師から五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ、同区下目黒)にかけての裏通りはすべて花街。芸者の数も最盛期には100人近くいたといいます。

花街が栄えた理由

 花街が栄えたのは目黒競馬場ができたためです。1907(明治40)年から1933(昭和8)年まであった目黒競馬場ですが、そこにやってくる旦那衆が芸者遊びに精を出し、最盛期には「座って商売のできる店は2軒あるかないか」という感じだったといいます。

明治後期頃に作成された目黒不動尊周辺の旧版地図。西側に「競馬場」の表記がある(画像:国土地理院)



 あまりにも花街だけが栄えるため、『目黒の近代史を古老に聞く』にはよい印象はなかったという証言もあります。

 確かに由緒ある門前町が突如、歓楽街になってしまったら驚くのも無理はありません。現在の目黒不動尊を歩いても、そのような時代があったとはにわかに想像できません。

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