何で夏ばかりに開催? 東京の花火大会、隅田川から始まるそのルーツとは

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何で夏ばかりに開催? 東京の花火大会、隅田川から始まるそのルーツとは

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2018年も東京都内の花火大会には、多くの人が詰めかけました。そういえば、東京の花火大会=夏に開催、といったイメージが強いですが、いったいなぜなのでしょうか。

始まりは江戸時代、火災で禁止令も

「夏の風物詩」として知られる花火。東京では毎年さまざまな場所で花火大会が行われ、多くの人でにぎわいます。ところで、都内の花火大会の開催は夏に集中していますが、何か理由があるのでしょうか。

東京で開催される花火大会のイメージ(画像:photolibrary)



 それを知るためにはまず、花火の伝来から振り返る必要があるようです。墨田区両国にある「両国花火資料館」の日隠(ひがくれ)明さんによると、イングランド国王ジェームス1世の使者としてジョン・セーリスという人物が1613(慶長18)年に来日し、そのセーリス氏に同行していた明国(当時の中国)の商人が、徳川家康のいる駿府城内で花火を披露したことが日本初の花火であると、「駿府政事録(すんぷせいじろく)」という史料に書かれているそうです。

 この時の経験がきっかけとなり、家康は観賞用の花火を家来に作らせるようになったとのこと。当時の花火は現在の丸い形の打ち上げ花火とは異なり、竹の節を抜いた筒に黒色火薬をつめて作った「立花火」と呼ばれるもので、打ち上げられる高さはわずか20~30m程度だったといいます。

 花火はその後、隅田川での舟遊びを好む諸大名たちの間で人気となりました。彼らは夏になると、舟遊びの一環で舟の上から花火を打ち上げるように。その人気は庶民にも広がり、1644(正保元)年には隅田川で初めて民間の花火が上げられました。人気が加速する一方、江戸の街では花火による火災が頻発。1648(慶安元)年には、ついに花火禁止令が出るまでになりました。

 1657(明暦3)年には、江戸の大半を焼いた「明暦の大火」も発生。舟遊びは一時姿を消す形となりましたが、1659(万治2)年に隅田川に両国橋がかけられたことで、隅田川での花火はふたたび盛んになり、多くの庶民が集まるようになりました。

明治中期から大正にかけて広まった

 時は過ぎて、1732(享保17)年。「享保の大飢饉」が西日本を襲いました。餓死者は1万2000人、その影響は江戸庶民の生活にまで及ぶこととなりました。それに加えて、江戸市中ではコレラが流行し、飢饉同様、多くの死者を出しました。
 
 この事態を重く見た当時の8代将軍・徳川吉宗は、同年の「川開き」の日(旧暦5月28日。現在の7月28日)、隅田川で慰霊と悪霊退散を祈って水神祭を開催。翌年の同日から「両国川開大(おお)花火」の名で、花火大会を隅田川で行うようになりました。

東京では多くの花火大会が水辺で開催される。写真はイメージ(画像:photolibrary)

 花火大会が全国的に広まったのは明治中期から大正にかけてです。「両国川開大花火」は7月28日に開催されていたため、芝浦や二子玉川といった都内のほかの場所でも、同時期に行われるようになったのです。

 東京の花火大会が夏に開催されるようになったのは、このような背景がありました。なお、「両国川開大花火」は1978(昭和53)年、「隅田川花火大会」に改名し、現在に至っています。今年の夏は美しい花火を見ながら、その歴史に思いをはせてみてはいかがでしょう?

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