前倒しオープンと貧弱な交通網 オタクの聖地「東京ビッグサイト」の苦難に満ちた歴史とは

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前倒しオープンと貧弱な交通網 オタクの聖地「東京ビッグサイト」の苦難に満ちた歴史とは

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猫柳蓮

フリーライター

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コミケやさまざまな展示イベントが行われ、多くの人が訪れる東京ビッグサイト。そんな東京ビッグサイトですが、オープン当初は苦難に満ちていました。フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

コミケ会場として有名

 同人誌即売会「コミックマーケット(以下、コミケ)」を主催するコミケ準備会が先日、「コミックマーケット99」を2021年5月2日から5日まで開催することを告知し、話題となりました。

 開催は夏冬の年2回で、世界中から多くの人が集まるコミケですが、2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止。そのため、今回の開催告知には感染抑制のための工夫が盛り込まれています。

東京ビッグサイト(画像:写真AC)



 そんなコミケの会場として知られるのが、東京ビッグサイト(東京国際展示場、江東区有明)です。

 東京ビッグサイトは中央区晴海にあった東京国際見本市会場の後継施設として1996(平成8)年オープン。以来、日本最大のコンベンション・センター(会議場)としてさまざまな催しに使われています。また現在は、商業施設やがん研有明病院などさまざまな施設が周囲に完成し、エリア全体として発展しています。

基本設計の公表は30年前

 しかし、オープン当初の風景はまったく異なっていました。

 東京ビッグサイトは臨海副都心「東京テレポートタウン」の中核施設として計画され、その基本設計が公表されたのは1990(平成2)年7月のこと。展示用の床面積は8ha、幕張メッセの5.4haを越え、日本最大規模として注目を集めていました。

東京ビッグサイトの所在地(画像:(C)Google)

 東京ビッグサイトのシンボルともいえる逆三角形の管理会議棟部分がリフトアップされたのは1994年7月。6500t、14万立方メートルの建築物を地上で組み立て、その後3日がかりで1分間に4.5cmずつ3日間かけ、23mの高さまでつり上げられました。

 そして、東京ビッグサイトという愛称が決まったのは同年11月のこと。まさに臨海副都心の夢を象徴する施設として期待され、東京ビッグサイトは1996年4月に誕生したのです。

開催予定だった世界都市博覧会の中止

 しかし同年に開催が予定されていた世界都市博覧会が、青島幸男・東京都知事(当時)の決断により中止に。そして苦肉の策として考えられたのが、いち早く展示場として貸し出すことでした。

ゆりかもめから見た東京ビッグサイト(画像:写真AC)



 当初、東京国際見本市会場から東京ビッグサイトへの会場の移転は1996年11月となっていましたが、都市博が中止になったことで同年3月に東京国際見本市会場を閉鎖し、東京ビッグサイトへ移転する方針を打ち出しました(1995年8月発表)。

 突然の変更案により、ブースの割り振りを行ったイベント主催者は混乱。東京都では「会場使用料半額」を打ち出し、担当職員は夏休み返上でイベント主催者の説得にあたることになりました。

 東京都は都市博の期間中に開場を空っぽにしても45億~50億円の経費がかかる上に、この年の秋に開業予定だったゆりかもめの客足に影響することを危惧。使用料半額にするほうがまだよいと判断していたのです(『東京新聞』1995年8月17日付夕刊)。

 こうして東京ビッグサイトは、東京都庁(新宿区西新宿)や江戸東京博物館(墨田区横網)と並んで、「バブルの遺産」などとネガティブなイメージで語られるところからスタートしました。

ゆりかもめ開通も追い風に

 東京ビッグサイトの最初のイベントは、1996年4月5日から始まった「第24回東京国際モーターサイクルショー」です。続く4月23日から始まったリクルート主催の就職相談会には初日だけで1万2000人が参加。新施設で開かれる華やかなイベントは、それだけでニュースのネタになったのです。

 加えて、ゆりかもめの開通にともなう観光客が増加。

有明コロシアム(画像:写真AC)

 有明コロシアムで、当時話題だったテニスの伊達公子選手とシュテフィ・グラフ選手の試合が行われたり、各種のイベントが開催されたりしたことで、平日1日4万人程度だった乗客数がゴールデンウィーク中に最大8万8000人に達しました。

当初は交通アクセスも悪かった

 こうして最悪の事態を回避しつつ運営が始まった東京ビッグサイトですが、利用者からは好評ではありませんでした。

 というのも、当時のアクセス方法は新橋駅からゆりかもめ、新木場駅から臨海高速鉄道、東京駅・豊洲駅から都営バスというもので、それまでの東京国際見本市会場が有楽町線の月島駅から徒歩で行けたことを考えると、交通の便は信じられないほど悪かったからです。

1994(平成6)年発行の地図。画面下「国際貿易センター」と書かれた場所が東京国際見本市会場。右上には月島駅(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 この年からコミケも開催されましたが、通常の交通手段では来場者をさばききれないため、東京駅などから臨時の都営バスを増発し、往復させていました。

 それにもかかわらず、東京駅のタクシー乗り場では相乗りの相手を探す人が大勢いました。また帰りの臨時バスの乗り場は、会場外の土埃(ぼこり)が舞うような未舗装の空き地にあるなどと、今では到底考えられない光景でした。これは21世紀になっても、ゆりかもめの豊洲延伸、りんかい線の大崎直通まで続きました。

 もうひとつ、オープン当初に驚かれたのは食べ物でした。当時は晴海に比べて食堂のメニューの価格が高く、かつ量も少なかったのです。そのため、コミケの開催時などは館内に臨時の出店が多く出ていました。

 そこで筆者が思い出したのは焼きそばです。具はキャベツの芯だけという、ある意味でレアな焼きそばが当たり前に売られていました。きっとよそで食べたら、到底おいしいと思えるはずもないのですが、なぜか記憶の中では「あれはあれでよかった」という思い出になっています。

 今では館内の食事もすっかりおいしくなりました。2021年の「コミックマーケット99」も楽しみです。

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