ナタデココが90年代の大ブーム後も「定番」として生き残った理由

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ナタデココが90年代の大ブーム後も「定番」として生き残った理由

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星野正子

20世紀研究家

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90年代に一大ブームを巻き起こしたナタデココ。そんな当時の熱狂について、20世紀研究家の星野正子さんが解説します。

注目されたのは1992年7月から

「独特の食感が新しい!」

 そんな評価とともにナタデココを用いたメニューが東京のレストランに目立つようになったのは1993(平成5)年の初夏からでした。

ナタデココ(画像:写真AC)



 ナタデココはココナツ果汁を発酵させてゲル化したもので、フィリピンでは伝統的に食べられている食品。寒天によく似ていますが、それ以上に歯ごたえがあるのが特徴です。

 ナタデココが日本に上陸したのは想像以上に早く、なんと1970年代。デルモンテがフルーツの缶詰に使用。その後、フジッコ(神戸市)がこれを使った業務用商品を販売するなどしていましたが、決してメジャーなものではありませんでした。

 そんなナタデココが脚光を浴びるきっかけになったのは、1992年7月のことです。

 ファミリーレストランのデニーズが、まだ認知されていなかったナタデココを「ココナツから生まれた新しい口あたりのゼリーをヨーグルトで仕上げたヘルシーデザート」として380円で売り出したのです。

 この新機軸のデザートは徐々に脚光を浴びます。当初は1店舗あたり1週間の平均売り上げ個数は140~150個。しかし冬になると売り上げはガクンと落ち50個程度になったといいます。それが、1993年の5月頃から人気に火が付きあっという間に一週間に400~500個も売れる商品となったのです。通常デザートは40~50個出れば人気なのに、これだけでコーヒー並みに売れているのだから大ヒットです(『日本食糧新聞』1993年9月17日付)。

甘さひかえめ、豊富な食物繊維、ノンカロリー

 このブームの背景には、「ちょっと変わったデザート」が好まれる当時の状況がありました。代表例はティラミスです。

ティラミス(画像:写真AC)



 ティラミスは1980年代のイタリア料理のブームとともに上陸した食べ物です。これを雑誌『Hanako』が取り上げたことで話題になり、ファミリーレストランやコンビニエンスストアでも販売されるようになり、一気に定番化しました。

 このティラミスブームによって、多くの日本人は「世界にはまだ、見知らぬおいしい食べ物がある」と知ることになります。であれば次はなんだろう……と思っていたところに投入されたのがナタデココだったというわけです。

 前述のようにブームになり始めた頃まで、ナタデココは知る人ぞ知る食べ物でした。お店でメニューに加えているのはデニーズくらいで、あとは明治屋や紀伊国屋などの輸入食材を扱っている店で缶詰や瓶詰めで販売されている程度。

 しかしブームに火がつくと、そんな店にもナタデココを求める人が殺到し、売り切れが続出します。

 ナタデココは、それまでブームだったティラミスに比べて、

・甘さひかえめ
・豊富な食物繊維
・ノンカロリー

と「利点」が多く、女性たちの人気を集めます。

 ナタデココを扱う飲食店にとっても、缶詰で保存が利くため廃棄ロスが少ないという利点もありました。

 こうして1993年の夏は、どこの飲食店もナタデココ一色に染まっていきます。

 タカノフルーツパーラー(新宿区新宿)では、ココナツミルクを使ったスープ状のデザートを950円で提供。セブン―イレブンとローソンも相次いでナタデココを用いたデザートを発売しますが、すぐに売れ切れてしまう状況に。

現地では「ナタデココ成り金」も出現

 困ったことに、ナタデココは国内で生産されておらず輸入に頼っていました。輸入品は、缶詰や瓶詰めでシロップ漬けになった状態のものでした。

 ナタデココは製造に時間がかかります。ココナツミルクに菌を入れて寝かせると、コンニャクのような繊維物が浮かんできます。これをカットして繰り返し水洗いし、酸味を抜くことで無味無臭にして、シロップに漬けて缶詰、もしくはびん詰めするという作業です。

ナタデココの原料となるココナツミルク(画像:写真AC)



 1回の製造にかかる時間は14~20日程度。そうした手間もあってか、フィリピンでは農家の手作業でほそぼそと作っているものだったのです。いくらブームだからといって、膨大な注文に応えられるだけの増産体制をすぐに整備することはできません。

 このころ日本のナタデココの総輸入量の約半分は、キッコーマンが扱うデルモンテブランドでした。同社はフィリピン工場を製造限界である80~100tでフル稼働させていましたが、注文に応じるのが難しい状況が続いていました。

 フィリピンでは「日本人がナタデココを大量に買い付けている」ということが話題になり、ナタデココの製造を始める人が次々と現れます。

 フィリピン政府もこのナタデココバブルに、製造法のビデオを配布して生産を奨励。とりわけ成功したのは、それまで別の食品を製造していた工場主です。そうした人たちは既にある設備を使い、いち早くナタデココに参入。こうして産まれた「ナタデココ成り金」が高級車や家を購入している姿もたびたび報じられました。

 ナタデココ工場の従業員の賃金は月額3000~4000ペソ。当時マニラの大卒初任給が月額4000~5000ペソでしたから言わずもがなの高給取りです(『週刊時事』1994年7月23日号)。

ブーム後も定番化に

 こうした品薄の状況は、フジッコが1993年9月から国内生産を始めたり、タイや東南アジア各国に新たな製造拠点が設けられたりしたことで次第に沈静化していきます。そして、ナタデココも次に登場したパンナコッタやアロエに押されていくようになります。

 ところが、ナタデココは不思議と消えることはありませんでした。

 ナタデココの次にブームとなるといわれたパンナコッタは早々と勢いを失いました。しかし、ナタデココは以後ブームとはならずとも定番として定着していきます。

 定着の理由はナタデココが、

・日本人の好む食感だったこと
・シロップ漬けのスタイルがさまざまなデザートに応用しやすかったこと

が挙げられます。

 それまでも日本では多くのデザートに寒天を使っていましたが、それに変わって「ちょっと工夫できる食材」としてナタデココが定番となったわけです。

ナタデココを使ったフルーツポンチ(画像:写真AC)



 ちなみに、日本人がフィリピンでナタデココを大量に買い付けていた頃、フィリピンでは、ありきたりの食材がそんなに売れるとは信じられず、

「日本人はナタデココをコンピューターの部品にしているのでは」

というウワサもあったようです。実際、現在では液晶ディスプレーに適した素材として工業利用の研究が進んでいます。

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