神保町から世界へ 1988年「週刊少年ジャンプ」驚異の500万部超えを振り返る

1980年代、少年たちのバイブル的存在だった「週刊少年ジャンプ」。その歴史について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。


「ジャンプ読んだ?」があいさつ代わり

 千代田区の神田神保町周辺では、あちこちの喫茶店で著者と編集者が打ち合わせを行っている光景を見かけます。

 多くの出版社が立ち並ぶ中、とりわけ目立つのは小学館(千代田区一ツ橋)と集英社(同)です。

 集英社はもともと、小学館の娯楽雑誌部門として1926(大正15・昭和元)年に生まれた会社。そのため、この2社を中心としたグループを本社所在地に由来して「一ツ橋(グループ)」と呼びます。

 筆者(昼間たかし。ルポライター)は初めて上京した日から神保町に通っていますが、小学館と集英社の建物を見たとき、「ずっと読んでいる漫画雑誌がここで作られているのか」と感動したものです。

 そう、時代は1990年代。友人と会ったときのあいさつは「ジャンプ読んだ?」でした……。

1984年の年末に403万部到達

 1980年代。漫画は誰もが読むものとして、社会に定着していました。雑誌を軸に絶好調だった出版業界は、1988(昭和63)年にシェアの3割を漫画が占めていました。その中でもすさまじい売れ行きを見せていたのが「週刊少年ジャンプ」でした。

465万部達成を祝う「週刊少年ジャンプ」1988年8月29日号(画像:集英社)



 神田猿楽町にあった週刊少年ジャンプ編集部は当時、後藤広喜編集長以下スタッフ16人。その編集部から生み出される雑誌は1984(昭和59)年末に403万部に到達。一躍耳目を集めていました。

 1980年代後半の人気連載のラインアップは「北斗の拳」「ドラゴンボール」「こちら葛飾区亀有公園前派出所」です。今でもこれらの作品は誰でも知っている超人気作。400万部を越えた当時、そんなに印刷するのは「暴挙ではないか」と見る向きもあったそうです。

25万部発行で「トントン」だった当初

 ところが、ふたを開けてみると「アンパンと同じスピードで売れた(「読売新聞」1988年8月1日付夕刊)」のです。返品率は3.8%とほぼ完売。こうなると勢いは止まりません。1988(昭和63)年初頭には「年内にも500万部を突破するのではないか」とうわさされました。

 この当時、漫画雑誌以外でもっとも売れていたのは写真週刊誌「FOCUS」の最大200万部。雑誌で500万部というのは前人未到でした。当時の毎日新聞の発行部数を超えており、雑誌としては考えられない数値だったのです。

 その予測が現実になったのは、1988年12月19日に発売された新春合併号のこと。出版の歴史上初めての出来事に、朝日新聞は12月17日付から「コミック疾走」のタイトルで短期連載をスタートするほどでした。

漫画雑誌のイメージ(画像:写真AC)



 それでは、週刊少年ジャンプが独走した理由はなんだったのでしょうか――。

 1968(昭和43)年の創刊時、週刊少年ジャンプの部数はわずか10万5000部でした。既にライバル誌の「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」が100万部を突破していたのに対して、集英社は完全に後れをとっていました。

 創刊当初の原価計算では、25万部発行・実売80%でようやく「トントン」になる計算だったので、最初は赤字スタートでした。おまけに週刊少年サンデーや週刊少年マガジンが定価70円だったのに対し、定価は90円。価格も高い上に、印刷したものが全て売れても赤字というとてつもなく厳しいスタートだったのです。

キーワードは「友情・努力・勝利」

 そんな台所事情の厳しい雑誌の注文に応じる人気漫画家はほとんどおらず、編集部員が訪問しても会ってもらえなかったといいます。そこで苦肉の策として考え出されたのが、本宮ひろ志さんや永井豪さんといった有望な新人を積極的に登用することでした。

 まず行われたのは、綿密なマーケティングです。小学5・6年生を中心とした読者層の好きな言葉をさぐり、「友情・努力・勝利」の三つをつかんだのです。さらに、価格が下げられないため、誌面に工夫を施します。20円高いかわりに、他誌よりも漫画の「ページ数」と「本数」が多いということをアピールしたのです。

「友情・努力・勝利」のイメージ(画像:写真AC)



 それから、発掘した新人を徹底的に鍛え上げるための専属制、アンケート至上主義によるユーザー調査によって部数は伸びていきました。初代編集長の長野規さんは当時を振り返って次のように答えています。

「デビューする前には、何十本かの没があります。例えば『ドクター・スランプアラレちゃん』『ドラゴンボール』で知られた鳥山あきら(原文ママ)は、手塚治虫賞の佳作にもならぬ新人でした。それをうちの担当編集者が鍛えに鍛えて、年間50本も没にして、初めて連載をはじめることにしたのですよ」(「創」1989年6月号)

 徹底的に鍛え上げた漫画家によって描かれる「友情・努力・勝利」の「熱血硬派路線」の作品群。それは「軽薄」ともいわれる社会の風潮の中で、一種の時代錯誤のようなものでした。

 しかしその時代錯誤のような作品が、メイン読者である小学生の心を必ずつかむという信念はブレませんでした。小学生であることをもっとも意識していたのは価格。1988年になると週刊少年サンデーや週刊少年マガジンは定価180円だったのに対して、ジャンプは170円になっていました。

世代を超えた読み物に

 これこそが、読者層を見据えた最大の工夫でした。500万部達成時の編集長・後藤広喜は、次のように話しています。

「彼らは二百円をもって買いに行くケースが多いのですが、つり銭が二十円であるか三十円であるかに大きな意味があるのです。三十円ですと「ビックリマン・チョコ」が買えますし、アイスキャンディーが一本買えます。子供にとって、この楽しみが大きいのです」(「ラックエース」1988年9月号)

 メインの読者は小学生だったものの、週刊少年ジャンプは大人も一緒に楽しめる雑誌でした。当時既に、少年誌を卒業していた読者をターゲットにした「週刊ヤングジャンプ」が登場していたにもかかわらず、大人になっても週刊少年ジャンプを読んでいる若者は大勢いたのです。

東京大学の外観(画像:(C)Google)



「読売新聞」1987(昭和62)年11月25日号に掲載された、同年の東京大学の学生生活実態調査によれば、「よく読んでいる定期刊行物」の1位は「ビッグコミックスピリッツ」と「ぴあ」ですが、「週刊少年ジャンプ」と「週刊ヤングジャンプ」も、それぞれ5位までにランクインしています。

大人も子どもも漫画が大好き?

 1980年代後半には青年誌の競争が激しさを増しますが、これもまた週刊少年ジャンプ500万部によって引き起こされた現象といえるでしょう。

 これを契機に、漫画を読む層はさらに拡大。石ノ森章太郎による「マンガ 日本経済入門」(日本経済新聞社)を契機に「まんが 株四季報」(世界文化社)など、大人が漫画で読む経済書も登場。

「まんが 株四季報」を出版した世界文化社(千代田区九段北)では、住友銀行やサントリー、本田技研工業、電通など若者にウケそうな企業の漫画化を企画し、ヒットを飛ばしていました。

1986年に発売された石ノ森章太郎による「マンガ 日本経済入門」(画像:日本経済新聞社)

 2020年現在、漫画を読んだことのない人はまずいないでしょう。人々が高齢化するにつれ、「いずれは『老人ジャンプ』や『老人サンデー』が創刊されるんじゃないか」という説もありましたが、そうはなっていません。だって最近は、子どもだけでなく60歳を超えた人もこう言うのですから。

「なあ、『鬼滅の刃』って面白いよな」


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