歌舞伎座でなんと毒殺事件がーー現代によみがえる横溝正史の世界、『仮名手本殺人事件』を読む
『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『江戸川乱歩と横溝正史』(集英社)など、歌舞伎とミステリに詳しい作家の中川右介さんが、2020年2月発売の『仮名手本殺人事件』の魅力について解説します。いつまで続く「歌舞伎のない東京」 新型コロナウイルスは、演劇や音楽の興行に大きな影響を与えています。 歌舞伎公演も3月以降すべてが中止となり、5月から始まる13代目市川團十郎白猿襲名披露公演も6月、7月まで含め中止が決定しました。他の劇場も、いまのところ7月までの公演は全て中止になりました。 これまでも建て替え工事で何年にもわたり歌舞伎座(中央区銀座)で公演できなかったことはありますが、その間、新橋演舞場(同)などの劇場で上演されていたため、東京で5か月にわたり歌舞伎公演がまったく行われないのは、明治になってから、もしかしたら江戸時代を含めても初めてかもしれません。 戦争末期の1944(昭和19)年3月、第一次決戦非常措置令により歌舞伎座などの大劇場は閉鎖命令が出ましたが、対象外の劇場もあり、敗戦まで日本のどこかでは歌舞伎が上演されていました。 そして8月15日に敗戦が決まると、全国で演劇・映画の興行は自粛されましたが、歌舞伎は9月1日に東京劇場(いまは映画館の東劇、同区築地)で2代目市川猿之助(初代猿翁)の一座が公演をはじめました。 もし「歌舞伎のない東京」が8月まで続くと、戦争中よりも長くなってしまいます。どうにか8月には再開してほしいものです。 気鋭の作家による歌舞伎ミステリ気鋭の作家による歌舞伎ミステリ さて、今回紹介するのは、歌舞伎界を舞台にしたミステリ小説『仮名手本殺人事件』(原書房)です。 2020年2月発売の『仮名手本殺人事件』(画像:原書房) 作者の稲羽白菟(はくと)氏は、2018年に『合邦の密室』(同)で、第9回島田荘司選ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞(準優秀作)してデビューした、気鋭の作家です。 『合邦の密室』は文楽の世界を舞台にしたミステリでしたが、今回は歌舞伎の世界が舞台となります。なんと、歌舞伎座で『仮名手本忠臣蔵』が上演されている最中に殺人事件が起きるのです。 しかも、舞台の上で主役の役者が毒殺されてしまいます。そして同時に客席でも殺人事件が起きます。書かれたのは2020年ですが、物語の設定は歌舞伎座のさよなら公演の時期になっています。 歌舞伎座は前述のように1945年5月に空襲で焼失しましたが、1951年に再建されました。しかし、60年近くたち、耐震の面からも建て替えることになり、2009(平成21)年1月から2010年4月までの16か月も「さよなら公演」をして、いったん閉場しました。 その「さよなら公演」のなかの顔見世(みせ)、11月22日に事件が起きた、という設定です。 しかし、作者はあえて「2009年」とは作中に示していません。それは現実の2009年11月の顔見世で上演された演目や出演俳優と、一致しないからです。 あくまでフィクションであり、現実にある歌舞伎座が登場しますが、現実にあった出来事ではないとするための、曖昧な設定なのでしょう。 仁左衛門家を意識した設定仁左衛門家を意識した設定 作中の舞台で上演される『仮名手本忠臣蔵』は有名な芝居で、現実にあるものです。物語のなかでもこの芝居が現実と同じように進行し、その途中で殺人事件が起きます。尾上菊五郎、中村勘三郎など実在する役者も登場しますが、物語にはからみません。 歌舞伎座の外観(画像:写真AC)『仮名手本殺人事件』の物語の中心になるのは、「芳岡仁右衛門」とその一族です。歌舞伎ファンならば、この名前を見てすぐに「片岡仁左衛門」を思い浮かべるでしょう。上方歌舞伎の名門で当代は15代目ですから、かなり長い歴史のある家です。 この小説の「芳岡仁右衛門」家も上方歌舞伎の名門という設定なので、作者の稲羽氏はあきらかに仁左衛門家を意識して設定しています。 しかし似ているのは、名前と上方歌舞伎の名門家であることくらいで、物語はまったくのフィクションです。 現実の片岡仁左衛門家ではこの間、殺人事件は起きていません。 ただ、敗戦直後の1946(昭和21)年3月、12代目片岡仁左衛門は、食糧難のなか、使用人に逆恨みされて妻子とも惨殺されてしまうという悲劇にあっています。 また、「上演中に殺された役者」も、実在します。忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りは、1702(元禄15)年12月、大石内蔵助以下が切腹するのは翌1703年2月ですが、その1年後の1704年2月19日、初代市川團十郎が舞台の上で共演者に刺殺されてしまいました。殺害の動機は諸説ありますが、真相は不明です。 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、400年以上の歴史を持つ歌舞伎には、さまざまな事件があり、なかには殺人事件もあるのです。 横溝正史の世界が現代によみがえる横溝正史の世界が現代によみがえる さて『仮名手本殺人事件』の作者の稲羽白菟氏は、ミステリだけでなく歌舞伎や文楽、オペラにも造詣が深い人です。第1作が文楽の世界での事件で、第2作は歌舞伎界を舞台に選びました。 同時に稲羽氏はミステリのなかでも、横溝正史を愛していると公言しています。つまり、『仮名手本殺人事件』は、歌舞伎と横溝正史へのオマージュに満ちた作品なのです。 横溝ミステリは旧家の複雑な人間関係が生んだ愛憎ドラマの果ての殺人が多く、『犬神家の一族』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』『悪魔が来りて笛を吹く』などが、その代表です。どれも映画やテレビドラマに何度もなっているので、おなじみでしょう。 1972年発表の『犬神家の一族』(画像:KADOKAWA) 一方、『本陣殺人事件』では密室トリック、『獄門島』『悪魔の手毬唄』では俳句や童謡の見立て殺人といった趣向もあり、悲劇としての人間ドラマと、トリックとが見事に融合しています。 稲羽氏はこの横溝的世界を現代によみがえらせるために、歌舞伎という古く美しい世界を舞台に選びました。 横溝正史と歌舞伎 横溝自身、歌舞伎を好んでおり、その絢爛(けんらん)豪華なまでの怪奇と耽美(たんび)の世界は歌舞伎的です。 横溝正史が描く複雑にねじれた人間関係は、鶴屋南北や河竹黙阿弥の直系と言っていいでしょう。 そう有名な作品ではありませんが、横溝正史の『幽霊座』は、中村歌右衛門家をモデルにしたもので、歌舞伎と「一族の悲劇」が融合した、知られざる傑作です。 現代における「旧家の悲劇」が成り立つ世界現代における「旧家の悲劇」が成り立つ世界 旧家の複雑な人間関係が生む殺人事件を描く横溝ミステリは、その大半が地方を舞台にしています。 近代化された都会ではありえない、封建的で古い因習の残る地域だからこそ、成り立つ人間ドラマなわけです。 例外的に『悪魔が来りて笛を吹く』は東京が舞台ですが、主人公一族は元華族という、特殊な人びとです。 もし、横溝正史的な「一族の血」をめぐる怨念のドラマを描くとしたら、時代設定を戦前か昭和20年代にするか、田舎を舞台にするしかありません。 タワーマンションに暮らす現在のセレブの物語としても、リアリティーがないでしょう。 ところが、現代の東京においても、横溝的「旧家の悲劇」が成り立つ世界があったのです。それが、歌舞伎役者の世界でした。 歌舞伎座が密室になるミステリ『仮名手本殺人事件』は歌舞伎を知っていればより楽しめますが、何も歌舞伎の知識がなくても、十分に面白い小説となっています。ミステリとしては、歌舞伎座という劇場全体を「密室」にするという壮大なトリックがあります。 密室とはいえ、歌舞伎座は満席であれば1800人ほどが入ります。いくら舞台に視線が集中しているからと、そのなかで殺人事件が可能なのか。 歌舞伎座の位置(画像:(C)Google) 探偵は、事件の背景にある複雑な人間関係の謎解きと同時に、密室トリックも解かなければならないのです。 この小説には、古典的ミステリによく出てくるさまざまな意匠が、現代世界に存在しながらも、どこか浮世離れしている歌舞伎の世界にいかにフィットするかという発見もあります。 現実の歌舞伎座が閉まっているいま、小説で、空想上の劇場としての歌舞伎座での殺人事件を楽しんでみてはいかかでしょう。
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