海賊版と戦え! 80年代に急成長「レンタルビデオ」の栄枯盛衰ストーリー
1980年代、東京を中心に急成長したレンタルビデオ業界。その歴史について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。1980年代前半に急成長した市場 都内で最近見かけなくなったのが、レンタルビデオ店です。かつての駅前なら、1軒どころか数軒あるのが当たり前でしたが、今では業態を替えてカードゲームなどを販売している店舗が残っているぐらいです。2020年11月には、充実の在庫で知られた新宿TSUTAYA歌舞伎町DVDレンタル館(新宿区歌舞伎町)も閉店。もはや、ひとつの時代が終わったといえるでしょう。 ビデオテープ(画像:写真AC) レンタルビデオ業界が急激に進化したのは1980年代です。その背景には家庭用ビデオデッキの普及がありました。当時展開していた店舗が既に消滅しているため、判然としがたいものの、 ・三鷹市のレンタルレコード店「黎紅堂(れいこうどう)」 ・吉祥寺(武蔵野市)の「友&愛」 がビデオも貸し出すようになったのが、日本のレンタルビデオ店の始まりと考えられています(ともに1980年開業)。 なお前述のTSUTAYAも、その発祥は大阪府枚方市の喫茶店兼レンタルレコード店ですが(1982年開業)、レンタルビデオの「専業店」がいつ生まれたかのは今後の研究が待たれます。 家庭用ビデオデッキが普及して、レンタルビデオ店は1980年代前半、 「確実にもうかる商売」 と見られていました。そのため新規参入の業者が相次ぎ、マーケットはカオスな状況になっていました。1987年には店舗数が全国約1万3000店まで増えたといいますから、その成長がいかに急だったかがわかります。 海賊版が横行した理由海賊版が横行した理由 ただその急成長ゆえ、1980年代中盤以降、既に大きな問題が発生していました。とりわけ問題だったのが海賊版の横行です。 21世紀の今になっては想像できませんが、権利者団体の日本ビデオ協会(現・日本映像ソフト協会)などと契約せず、市販のビデオを勝手に貸し出したり、違法コピーされた海賊版をレンタルしたりする店すらあったのです。 ビデオテープ(画像:写真AC) 当時の雑誌には、そうした違法レンタル店を見分ける記事が成立していますので、いかに「海賊版」が横行していたかがわかります。当時の海賊版は次のようなものでした。 「レンタルビデオを利用して一番腹が立つのが、粗悪品をつかまされたとき。是正されつつあるとはいえ、海賊版は少なくない。正規のテープからダビングしたもの、ビデオディスクからダビングしたもの。輸入ビデオディスクからダビングしてワープロなどで字幕をつけたもの、など海賊版でも色々な種類がある」(『pumpkin』1988年8月10日号) パソコンで動画編集ができない当時、作品にわざわざ字幕をつけるのは大変な手間ですが、そこまで違法行為に手を染めても利益が出るくらい需要が高かったことがわかります。 また海賊版が横行したもうひとつ理由は、 ・ライバル店の増加による値下げ合戦 でした。1987(昭和62)年には、それまで1泊2日500円が相場だったレンタル料金が急激に下落しています。 「最近、東京・高田馬場など若者の多い学生街などではレンタル店が競って「入会金無料 オール三百八十円」「入会金無料 オール三百五十円」などと看板を掲げ、東京西郊では「二百八十円」に値下げするところまで現れた」(『読売新聞』1987年6月6日付夕刊) しかし過当競争の中で、正規版を扱う店舗のレンタル料金も次第に下がっていったため、映像の質が粗悪な海賊版はやがて姿を消し、まっとうな店舗だけが残っていくことになりました。 レンタルビデオが注目された日レンタルビデオが注目された日 そんなレンタルビデオにとって、もっとも印象的だった日が1989(平成元)年2月24日です。 この日は、新宿御苑(新宿区内藤町)で昭和天皇の「大喪の礼」が行われました。全国の官庁や企業、学校のほとんどは休日となり、盛り場でもシャッターが下ろされました。また、全テレビ番組が大喪の礼を中継しました。 その前日から当日にかけて、多くの人々がレンタルビデオ店に押し寄せました。『朝日新聞』1989年2月24日付夕刊には、練馬区の光が丘団地の様子が記されています。 「都内最大のマンモス団地は朝からひっそり。大型店や銀行などの大半は臨時休業。自宅にこもりきりの人が多い。一方、団地周辺の5軒ほどの貸しビデオ店は、軒並み、平日の倍を超える客でにぎわった」 レンタルビデオはこのとき、まさに注目された瞬間だったのです。 そして現代、その役目は配信サービスへと移行しています。レンタルビデオ店より配信サイトのほうが多くの作品を手軽に鑑賞できますが、やはりパッケージを直接見て選ぶワクワク感も忘れがたいです。
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