日本最東端 絶海の孤島「南鳥島」に明治の日本人がたどり着いたワケ

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日本最東端 絶海の孤島「南鳥島」に明治の日本人がたどり着いたワケ

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山下ゆ

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世界でも屈指の領海と排他的経済水域を持つ日本。その背景を探ると、行きついたのはアホウドリでした。『アホウドリを追った日本人』(平岡昭利、岩波書店)について、ブログ「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」管理人の山下ゆ さんが紹介します。

さまざまな離島に進出した日本人

 東京都の東端はどこでしょうか? 江東区や葛飾区あたりが頭に浮かぶかもしれませんが、正解は日本の東端でもある南鳥島です。

南鳥島の全景(画像:小笠原村)



 南鳥島は1辺が2kmほどの三角形の形をしており、現在は自衛隊の管理する飛行場や気象庁の施設があるだけで一般の住民はいませんが、行政上は東京都小笠原村に属しています。ただし、南鳥島は小笠原諸島の父島から東南東に1300kmほど離れており(ちなみに東京から父島への距離は1000km弱)、まさに絶海の孤島とも言うべき場所です。

 この絶海の孤島に、日本人はどのようにして、そして何のためにたどり着いたのでしょうか? それを教えてくれるのが、平岡昭利『アホウドリを追った日本人』(岩波書店)です。

 明治から大正期の日本人は、この南鳥島をはじめ、鳥島、あるいは尖閣諸島など、人が住むにはどう考えても不適当な島へと進出していきますが、その理由が本書のタイトルに掲げられているアホウドリなのです。

 アホウドリは両翼を広げると2.4mにもなる太平洋でも最大級の海鳥なのですが、主に無人島で繁殖するために人を警戒することを知らず、簡単に捕殺されてしまったことからこの名前が付いています。

高価だったアホウドリの羽毛

 なぜ人々がアホウドリを捕殺したかと言うと、その理由はその羽毛です。

 鳥島での記録によると、アホウドリ3羽からおよそ1斤(600g)の羽毛が取れたと言います。1897(明治30)年頃の羽毛の価格は、アホウドリの腹毛100斤で30~50円でした。当時の巡査の初任給が9円でしたから、アホウドリの羽毛は相当価値のあるものだったのです。

アホウドリ(画像:写真AC)



 このアホウドリの捕獲に本格的に乗り出したのが八丈島の大工、玉置半右衛門でした。玉置は江戸幕府が文久年間に行った小笠原開拓にも従事しており、そこでアホウドリの捕獲も経験しています。

 明治政府は1875年になると小笠原の再統治を決定し、小笠原に移り住んだ人々によって父島や母島のアホウドリは大量に捕獲され、その姿を消していきました。

 そこで玉置が目を付けたのが、伊豆諸島最南端の火山島・鳥島です。玉置は「牧畜開拓」という名目で鳥島の借地と下船許可を願い出ると、1887年の硫黄島探検の一行の船に乗せてもらい鳥島へ向かいました。そして、「牧畜開拓」はそっちのけでひたすらアホウドリの撲殺を続けたのです。

 鳥島はアホウドリが群生しており、白雪が堆積するようだったと言います。玉置はここに最大125人の労働者を送り込み、アホウドリを撲殺して羽毛をむしり取らせました。ひとりの労働者が1日100羽200羽のアホウドリを撲殺することも可能だったと言います。

 玉置が鳥島に上陸してから1902年までの間に撲殺したアホウドリの数は600万羽に達するとされ、100斤50円で計算すれば、玉置は15年間で100万円近い売り上げを得たことになります。ちなみに当時の総理大臣の年俸が1万円であり、玉置が手にしたお金がいかに巨額のものであったかがわかります。

放置されていた島に乗り込んだ日本人

 こうなると、当然のように玉置に続こうとする人が出てきます。彼らが目指したのが小笠原諸島の南東300カイリにあるという「グランパス島」でした。

 この「グランパス島」なる島は実在しないのですが、当時、欧米や日本でつくられた地図には万が一でも存在が確認できれば領有権を主張できるため、こうした存在の疑わしい島が書き込まれており、人々は実際には存在しない島を見つけようと探検を重ねました。

 そして、このグランパス島を探すなかで、マーカス島(南鳥島)に到達したのが、小笠原で南洋貿易に従事していた水谷新六でした。

 マーカス島自体は、1543年にスペイン艦隊によって発見されており、マーカス島という名前も1860年頃にアメリカ人の宣教師が付けた名前だと言います。しかし、小さくて領有の価値はない島として放置されていました。

南鳥島の歴史(画像:国土交通省)



 1896(明治29)年にマーカス島に上陸した水谷は、ここにアホウドリの群生を確認すると、すぐさま労働者20人を引き連れて政府の許可も得ずにアホウドリの捕獲に向かいます。

 翌年になると、政府に対してマーカス島を日本に編入すべきだという「島嶼(しょ)発見届」を内務省に、同島の「借用願い」を東京府に出しています。

 1年後の1898年、政府は閣議でマーカス島を「水谷島」と命名して小笠原島司の所管とする案が提出されますが、東京府が「南鳥島」にすべきだと主張し、結局、「南鳥島」として日本に編入されることになります。

 東京府は命名の理由として鳥島の南という地理的な理由をあげていますが、南鳥島は鳥島から1600kmも南東に離れており、アホウドリ捕獲のための島という性格から、この名前が付けられたと考えられます。

南鳥島を狙ったアメリカ

 こうして得られたアホウドリの羽毛やはく製を買ったのは誰かと言うと、それはヨーロッパの人々です。

 ヨーロッパでは婦人向けの帽子の飾りとして鳥の羽が数多く使われましたが、当時のヨーロッパでは鳥類の禁猟や保護が進んでいました。そこで、鳥類の保護が特に行われなかった明治期の日本が鳥類輸出大国となったのです。

 一方、南鳥島に関してはアメリカにも目を付けている人物がいました。彼らの狙いはアホウドリの羽毛ではなく、アホウドリなどの鳥のふんなどからでき肥料にもなるグアノでした。

 アメリカの実業家が南鳥島で事業を行おうとしていることを知った日本政府は、軍艦を派遣して、南鳥島にやってきたアメリカ船を退去させます。こうして、南鳥島は日本の最東端の領土として確定することになるのです。

 しかし、こうしたアホウドリ捕獲事業に従事した人々の待遇は決して良いものとは言えませんでした。南鳥島は台風や高潮の被害に度々襲われ、さらに羽毛採取後に捨てられた鳥の死骸の影響で衛生環境も悪く、出稼ぎ労働者の死亡率は33%だったとも言われています。また、鳥島では1902(明治35)年に大噴火が起こり、出稼ぎ労働者125人が行方不明のまま死亡扱いになっています。

 無人島に「置き去り」にされる出稼ぎ労働者たちもいました。1904年に北西ハワイ諸島の西にあるリシアンスキー島においてアメリカ政府に捕まった労働者たちはいずれも衰弱しており、捕まらなければ衰弱死していた状況でした。

アホウドリと排他的経済水域の関係性

 それでも、日本人はアホウドリを求めて、南大東島、北大東島、尖閣諸島などに進出していきます。

 南北の大東島では期待されたほどのアホウドリはいなかったものの、前述の玉置がサトウキビの島として開拓を行っていくことになります。一方、尖閣諸島では大量のアホウドリが確認されましたが、乱獲によって急速にその数を減らしていきました。

 しかし、日本の南洋進出はアホウドリからリン鉱へとターゲットを変え、海軍などとも共謀しながら進んでいきます。本書では、リン鉱を求めて、プラタス島(東沙島)、スプラトリー諸島(南沙諸島)へと進出した西沢吉治と司馬遼太郎『坂の上の雲』でも有名な海軍の秋山真之との関係なども紹介されています。

『アホウドリを追った日本人』(画像:岩波書店)



 日本の領土の面積は約38万平方キロメートルで世界第61位ですが、領海と排他的経済水域をあわせた面積は世界第6位と言われています。

 排他的経済水域の広さに関しては、日本の南に広がる離島の存在が大きいわけですが、この離島を日本の領土に組み込んだ原動力こそがアホウドリだったのです。本書は私たちが忘れてしまった意外な事実を教えてくれる1冊です。

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