日本初のプロ野球チームは「巨人」じゃなかった 東京・芝浦に誕生した伝説のチームをひも解く

  • 未分類
日本初のプロ野球チームは「巨人」じゃなかった 東京・芝浦に誕生した伝説のチームをひも解く

\ この記事を書いた人 /

齊藤颯人のプロフィール画像

齊藤颯人

ライター・サイト運営者

ライターページへ

「日本初のプロ野球チームはどこか?」という問いに、正解を即回答できる人はいないでしょう。その名は「日本運動協会」。同チームの詳細について、ライターの齊藤颯人さんが解説します。

早大野球部OBによって創設

「日本初のプロ野球チームはどこか?」という問いは、実はかなりの難問です。そもそも野球に興味がなければ見当もつかないでしょうし、野球好きの人でも「巨人でしょ」と言いたくなってしまうから。

 しかし、日本初のプロ野球チームは巨人ではありません。その答えとなるのが、1921(大正10)年に創設された「日本運動協会」というチームです。巨人の前身ともいえる大日本東京野球倶楽部が発足したのは1934(昭和9)年ですから、日本運動協会は実に13年も早く産声を上げていたことになります。

 このチームの創設に関わったのは、日本の野球界を当時リードしていた早稲田大学の野球部OBたちでした。具体的には、河野安通志・橋戸信・押川清といった顔ぶれで、2019年放送の大河ドラマ『いだてん』にも登場した、「天狗倶楽部」のメンバーも多く含まれています。

盛り上がるプロ野球のイメージ(画像:写真AC)



 彼らがプロ野球チームの創設に至った動機は、大きく分けて3点ほど考えられます。

 ひとつ目は、アメリカですでにプロリーグが発足しており、そのうわさが日本にも及んでいたこと。日本の野球人たちは、「日本にもプロ野球を」と考えるようになり、徐々に機運が高まっていました。

プロ野球チーム創設に至った動機

 ふたつ目は、当時の学生野球界が「行き詰まり」の状態にあると考えていたこと。

 学生野球、特に大学野球の選手たちはスターとしてチヤホヤされ、次第に学業をおろそかにするようになりました。彼らはそれを憂慮し、「学生たちの手本になるようなプロチームが必要」と認識します。もちろん、プロ化することで野球レベルの向上も見込んでいました。

盛り上がるプロ野球のイメージ(画像:写真AC)



 そして三つ目は、そもそも当時の日本に「一般人がスポーツを楽しむ」という考えが浸透していなかったことです。

 この時代、スポーツはもっぱら「学生たちの遊び」と考えられており、運動の機会は多くありませんでした。彼らは、欧米において広くスポーツが楽しまれている現状を知っていたため、日本にもスポーツ文化を根付かせようとしたのです。

 それゆえに、「日本運動協会」という野球チームらしからぬ大げさな名が付けられました。彼らがプロ野球チームの創設を足掛かりに、スポーツ文化そのものを日本へ普及させようとしていたのは言うまでもないでしょう。

フランチャイズ制の導入など、先進的だった

 こうして誕生したチームには、現代に生きるわれわれから見ても先進的だと思える点がいくつも挙げられます。

 経営を担った面々は、まず「チームで球場を所有しなければならない」という考えに至りました。これは現代でいうところの「フランチャイズ制度(一定地域における独占的な興行権を得ること)」に近い発想で、極めて合理的なシステムです。実際、今日まで日本およびアメリカのプロ野球リーグはフランチャイズ制度を敷いており、その有効性は証明され続けています。

選手に高い教養も要求

 彼らは当時すでにフランチャイズ制を導入していたアメリカの例を参考にして、東京・芝浦の地を本拠と定めました。それゆえに、日本運動協会は別名「芝浦協会」とも呼ばれます。

 そして同地に日本初のプロ野球フランチャイズ球場・芝浦球場を建設。活動開始への準備を整えていきます。

 加えて「学生野球の腐敗」を叫んでいた彼らだけあって、選手たちに野球技術だけでなく、高い教養を要求した点も注目できます。当時の募集要項を見てみると、学歴の必須条件が「中等学校卒業以上」と定められており、今でいえば高校卒業に相当するものです。

逆風にさらされながらも、懸命に活動

 以上で見たように先進的な点も多かった日本運動協会ですが、当時は「プロスポーツ」どころか、「一般人のスポーツ」すら普及していない時代。彼らの活動は大きな逆風にさらされました。

 第一に、そもそも選手が全く集まらないのです。彼らが見込んでいた大学のOBなどは全く寄り付かず、立ち上げメンバーの14人には野球未経験者も含まれている始末でした。

 それでも、河野は「若くて身体能力も悪くないから、数年鍛えればモノになる」と判断。彼らは約1年間ほぼ試合をせず、強化合宿に明け暮れます。

 合宿では野球技術の強化はもちろんのこと、選手たちに「優れた人格」を身につけさせる教育も行われました。具体的には、「願書の書き方」「正しい口のきき方や対応」「英語や簿記の学習」などで、ここだけ見ればとてもプロ野球チームの活動内容には思えません。

盛り上がるプロ野球のイメージ(画像:写真AC)



 こうして1年間みっちり鍛えられた選手たちは、翌1922(大正11)年から本格的に活動を開始しました。

 依然として社会は彼らに冷ややかな目を向けていましたが、朝鮮・満洲への遠征も敢行し、精力的な活動を見せています。その後は河野らの母校・早大との試合でも接戦を演じるなど、実力は決して低くありませんでした。

 野球未経験者も混じったチームであったことを考えれば、立派な戦績でしょう。

なぜ活動に終止符を打ったのか

 世間からの懐疑的な声を背に活動していた彼らですが、夢の終わりは唐突に訪れます。1923(大正12)年9月1日、彼らの活動する芝浦を関東大震災が襲いました。

 しかし、東京中を大混乱に陥れた震災によって球場が倒壊したかといえば、そうではありません。芝浦球場は軽微な被害にとどまり、活動休止に追い込まれるほどのものではなかった。

盛り上がるプロ野球のイメージ(画像:写真AC)



 では、なぜ日本運動協会は活動に終止符を打たなければならなかったのでしょうか。

 その答えは、広大な敷地を誇っていた球場が「被災地救援の本拠地」として関東戒厳司令部(関東大震災の被害を受けて創立された大日本帝国陸軍司令部)に徴発されてしまったからです。本拠地が使用不可能となった彼らは、球場が返還されるまで各地を転々としながら試合に興じます。

 しかし、戒厳司令部は翌年になっても球場を返還する構えを見せず、河野らに無断で倉庫まで置いてしまったといいます。

 ここに「返還の見込みナシ」と悟った彼らは、活動の停止を表明しました。その後は阪神急行鉄道がこのチームを引き取り「宝塚運動協会」として再出発しましたが、経営が立ち行かなくなり1929(昭和4)年に解散しています。

 震災に際して東京六大学のグラウンドはどこも接収されなかったことから、やはりプロ野球が世間の評価を得ることはできなかった状況が浮き彫りになってきます。

 後に誕生するプロ野球リーグ「日本野球連盟(現在のNPBの前身)」が世間の逆風に苦しみ続けたことを考えても、日本運動協会の創立は「早すぎた」のかもしれません。

関連記事