TSUTAYA創業者もあやかった!?人気絵師や職業作家を見出したヒットメーカー蔦屋重三郎とは

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TSUTAYA創業者もあやかった!?人気絵師や職業作家を見出したヒットメーカー蔦屋重三郎とは

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日野京子

エデュケーショナルライター

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江戸時代、浮世絵師の挿絵入り書籍は写真集やメディア、漫画のような存在でした。吉原のガイドブックをヒットさせた蔦谷重三郎は、書店として日本初の職業作家や人気浮世絵師を世に送り出します。時の政治に翻弄されながら化政文化に多大な影響をもたらした一人の本屋さんについて、エデュケーショナルライターの日野京子さんが解説します。

 今年も芸術の秋、読書の秋がやってきました。時代によって流行の絵や物語が誕生しますが、日本の長い歴史でも身分に関係なく庶民にとって絵画が一番身近だったのが江戸時代ではないでしょうか。

 世界的に高い評価を得ている浮世絵は今でこそ「芸術作品」という扱いを受けています。しかし、江戸時代の浮世絵の役割は幅広く、風光明媚な観光地や人気役者、茶屋の看板娘そして花魁などの似顔絵を紹介するといった現在の写真集やメディアのような存在でした。

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浅草庵『画本東都遊 3巻』より新吉原の俯瞰図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)



 とくに、浮世絵師の挿絵入りの書物「黄表紙本」は現在の漫画の源流ともいえ、人気を博しました。こうした本を取り扱い、名だたる浮世絵師を世に送り出したのが吉原生まれ吉原育ちの蔦屋重三郎です。

今とは違う書店の役割

 寛延3(1750)年に生まれた蔦屋重三郎は23歳の時に最大の歓楽街でもあった吉原遊郭の北側にあった大門前の通りに書店「耕書堂」を構えました。ちなみにここでいう吉原は、浅草移転後の新吉原になり、現在の台東区千束三丁目から四丁目になります。

「耕書堂」のあった台東区千束4丁目近辺(画像:photoAC)

 当時の書店は本を手掛ける版元の役割も担っていました。既製の本を売るのではなく、売れそうな本を企画、または浮世絵師や作者と話し合いを重ねて本を作っていき自分の店で売るという流れです。

 書店が成功するかどうかも経営者の腕一つという、今の出版業界とは異なる形態でした。吉原で育った彼にとって一番初めの大きな仕事が『吉原細見』の出版です。

 吉原のガイドマップであり、遊郭の中にひしめき合うように並ぶ店の場所やそこに所属する遊女の名前が事細かに記されています。年1回、または2回刊行され、吉原に出かける時には欠かせないアイテムでした。

ガイドマップのイメージ(画像:photoAC)

常連客から吉原初心者にも必須の書物

 江戸随一の歓楽街である吉原に遊びに行くには、男性にとってもそれなりに下調べが必要です。どういうお店にどんな名前の遊女がいるのか、大所帯はどこの店なのかも『吉原細見』があれば瞬時に分かります。

 また、一部の人しか会えない高嶺の花である花魁の姿を、浮世絵を見て思いをはせる男性は江戸市中たくさんいたことでしょう。

 生まれも育ちも吉原である蔦屋重三郎は『吉原細見』で成功を収めると、天明3(1783)年には吉原界隈から鶴屋喜右衛門の書店など有名店がある日本橋通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)に店を移転させます。

大伝馬町周辺地図

 遊郭での男女の駆け引きや様子を生々しく描写した洒落本、庶民向けの娯楽要素の強い黄表紙等にも着手しこれも人気を集めることに成功しました。蔦屋自身も狂歌をたしなんでいたため人脈も広く、才能ある作家や絵師を登用し次々にヒット作を世に送り出せたのです。

 とくに目を引くのが、当時の新進気鋭の浮世絵師の錦絵を出版した点です。

 今では浮世絵師の代表的な絵師として教科書にも載る喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出し、世に送り出しました。単なる出版事業に携わるだけでなく、浮世絵師の育成も行っていたことは偉大な功績と言えます。

謎の浮世絵師や日本初の職業作家誕生にも寄与

 地元吉原で成功し、日本橋へと店を移した後も順風満帆かと思った蔦屋重三郎ですが、田沼意次から松平定信が老中に変わり節約や風紀の乱れの取り締まりが強化されたことで風向きが変わりました。

 後世「寛政の改革」と呼ばれているこの改革で、遊郭を題材とした書物や遊女や美女を取り上げた浮世絵は風紀を乱すとして版元である蔦屋重三郎は幕府から目を付けられたのです。

喜多川歌麿の浮世絵のイメージ(画像:photoAC)

 彼自身だけでなく優れた美人画を生み出した喜多川歌麿も処罰の対象になったほど、当時の書物や浮世絵への取り締まりは厳しいものがありました。松平定信が寛政5(1793)年に失脚し、寛政の改革が終わると翌年に謎の浮世絵師として名をはせる東洲斎写楽の作品を出版しました。

 実は、写楽の作品は全て蔦屋重三郎が経営する耕書堂から出版されており、両者の深いつながりをうかがい知ることができます。また、日本の職業作家の祖と目されている『東海道中膝栗毛』の作者である十返舎一九が蔦屋重三郎の店に身を寄せて出版のイロハを学んでおり、優れた芸術家と文筆家の誕生に直接関与しているのです。

江戸時代の旅事情を伝える『東海道中膝栗毛』。京都にある弥次さん喜多さんの銅像(画像:photoAC)

化政文化に与えた影響は計り知れない

 蔦屋重三郎は寛政9(1797)年に亡くなりましたが、その後の化政文化(1804年~1830年)に与えた影響は計り知れません。時の政治に翻弄されながらも、庶民が何を求めているのか察知する能力のおかげで、数多くの浮世絵師や作家を見出したことは称えられる功績です。

 江戸時代最大の娯楽の街である吉原で育つという特殊なバックボーンは、人々が何を求め何で喜ぶのかを見抜く才能が育ったと考えるのは、大げさなことではないのかもしれません。

 今の世の中でもニーズの高いそんな優れた力を持っていた蔦屋重三郎。彼に思いをはせながら、浅草や千束界隈を散策してみてはいかがでしょうか。

参照
国立国会図書館デジタルアーカイブ
・『箱入娘面屋人魚』3巻(口上の挿絵が蔦屋重三郎こと蔦唐丸)
・蔦屋重三郎『吉原細見』
・葛飾北斎『画本東都遊』3巻「耕書堂」

浅草にある吉原神社(画像:photoAC)

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