日本橋「人形町」の由来は町民たちが付けた愛称だった!

里俗地名として発生した「人形町」。その謎とお勧めスポットについて、フリーライターの大居候さんが解説します。


昭和まで存在しなかった人形町

 中央区の日本橋人形町(以下、人形町)には味のあるお店が並び、江戸時代からのにぎわいを今に伝えています。そんな人形町ですが、公式にその名で呼ばれるようになったのは、1933(昭和8)年のこと。公式には昭和まで存在しなかった地名なのです。なお、現在の1丁目から3丁目までの町域は1980年に決まっています。

中央区の日本橋人形町(画像:(C)Google)




 人形町はもともと、里俗(りぞく)地名として発生しました。里俗とは土地のならわしを意味する言葉で、現在の住所では

「何町 何丁目 何番地」

と規則的に番号が振られていますが、江戸時代はもっと大ざっぱでした。そのため、誰となく町内の一部や道に通称を付けていました。

 人形町の属する旧日本橋区は里俗地名の宝庫です。1937年に編まれた『日本橋區史』では46筆が収録。人形町交差点の近くに石碑の立つ玄冶店(げんやだな)は、与三郎とお富で有名な歌舞伎『与よわなさけうきなの話情浮名横櫛』の舞台で、春日八郎の歌「お富さん」で知られる里俗地名です。

 にぎわいの始まりは、現在の人形町3丁目にあたる堺町にあった芝居町から。堺町は、慶長年間に大阪から来た廻船(かいせん)商人らによって海に近い湿地を埋め立てて開かれた町でした。当初は上下に分かれていましたが、江戸時代初期に上が葺屋町(かやぶき職人が多く住んだと伝わる)となり、下が堺町となりました。

江戸三座の筆頭「中村座」の登場


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