都内絶滅寸前の「水田」が足立区にあった! 田んぼを守り続けた農家の意地を聞いた

  • ライフ
  • 扇大橋駅
都内絶滅寸前の「水田」が足立区にあった! 田んぼを守り続けた農家の意地を聞いた

\ この記事を書いた人 /

小野和哉のプロフィール画像

小野和哉

編集者、ライター

ライターページへ

足立区の扇地区に、なんと区内唯一の水田があります。いったいなぜ残っているのでしょうか。編集者・ライターの小野和哉さんが取材しました。

住宅街の中に突如として現れる謎の水田

 東京都の足立区南西部、都営日暮里・舎人ライナーで隅田川と荒川を超えてすぐの場所に扇という地区があります。

 扇大橋駅を降りて住宅街を数分ほど歩くと、突如として現れるミニミニサイズの田んぼ。東京23区で生活をするなかで水田を目にする機会はほぼないので、見かけた誰もが意表をつかれることでしょう。

足立区扇にある水田の様子。6月撮影(画像:小野和哉)



 東京都産業労働局農林水産部「東京都農作物生産状況調査結果報告書(平成30年産)」によると、特別区部、つまり東京23区の農業産出額は「野菜」が3563(単位は100万円。35億6300万円)であるのに対して、「稲・麦類」は0です。報告書には「表示単位に満たないものは『0』で表記」とあるので、産出額が100万円にも満たないということなのでしょう。

 行政によって管理されている農業体験用の水田などはいくつか存在しているようですが、先祖代々受け継がれ、農地として耕作されている田んぼはほとんど幻のような存在になってきています。

 足立区扇の水田も、東京23区に残る貴重な田んぼのひとつであり、かつ足立区では唯一の水田です。今回、取材の過程でお話を聞いた足立区立郷土博物館(同区大谷田)の学芸員さんは次のようにいいました。

「私もなんであそこに水田が残っているかわからないんですよ」

 ミステリアスな足立区扇の水田、誰がどんな目的で管理しているのか、調べてみると知られざるストーリーが浮かび上がってきました。

江戸自体以降、新田開発が進んだ足立区

 かつて足立区(旧足立郡)は稲作が盛んな地域でした。

 地勢平たん、地味肥沃(ひよく)で、農業地として適した土地であり、江戸時代以降、特に足立区の東部は新田(開拓してできた農地、村のこと)開発が積極的に行われ、多くの農民が入植してきました。足立区内では、慶長年間から正保(しょうほう)年間のわずか三十数年間で13もの新田が開墾されたそうです。

足立区立郷土博物館の展示。新田開発が盛んだったことがわかる(画像:小野和哉)



 江戸幕府による治水政策が進んだこともあり、江戸中期には水田はすっかり開発され尽くされ、現在の荒川区を含む隅田川と江戸川に挟まれた東京東部低地(東郊地域)は、大部分(7~8割)が水田として利用されるようになりました。

田植唄が伝わる足立区

 ちなみに足立区には「十よ七」という田植唄が伝わっています。

サァーヤーレ十よ七は/今年初めて/田植田植/しかも、この田は/良くできたヨイ/(サァー植えて去れ植えて去れ)/サァーヤーレこの田は/丈が一丈で/穂が五尺/枡(ます)はヨイいらぬで/箕(み)で計るヨイ/(サァー植えて去れ植えて去れ)(出典:『新修足立区史』)

1932(昭和7)年の足立区内での稲作の様子(画像:足立区立郷土博物館)

 この唄は、荒川以北の足立区から埼玉県草加市にかけて、田植えの時期になるとあちこちの田んぼから聞こえてきたといいます。

 人々の生活に根ざした稲作・水田がなぜこつぜんと姿を消してしまったのでしょうか。

高度成長期の中で役目を終えた農業用水

 農村地帯の劇的な変貌は、近代以降の急激な人口増加に起因します。

 最初のきっかけとなったのは1923(大正12)年の関東大震災。市内からの多くの移住者がやって来ました。戦後は引き揚げ者住宅や都営住宅の建設で、人口増加率は急増。農村の風景の中に住宅や工場が立ち並ぶようになりました。

区域内の宅地所有者と借地権者が組合を結成して、土地区画整理の事業主となることもあった(画像:足立区立郷土博物館)



 宅地造成のための土地区画整理が行われるようになり、水田は住宅地への姿を変えていきます。決定的だったのは、水田に不可欠な用水の停止です。

 前提として、稲作には大量の水が必要です。足立区は大河川に囲まれた水の豊かな土地ですが、海水が入り込む「感潮(かんちょう)河川」のため、古くから

・見沼代用水
・葛西用水

などの長距離用水を整備し、農業用水として利用していました。

 しかし、先述の通り戦後の人口急増に伴う住宅難で、農業を放棄し土地を提供する農家も多くなり、ついには用水路を管理していた足立区の用水組合は農業用水路を足立区へ管理換えすることを決め、組合自体も1966(昭和41)年に解散となります。

 人間の身体でいえば、張りめぐらされた血管が機能を停止したともいえる状態。足立区の稲作は瀕死(ひんし)状態へと追いやられてしまったのです。

安土桃山の時代から続く代々の農家

「昔はこの一帯が小宮家の田んぼや畑だったと聞いています」

 そう教えてくれたのは、足立区扇にある水田の管理者である小宮幸子さん(64歳)。2020年、夫の父(小宮忠義さん)が他界してからは、息子の英之さん(36歳)と親子ふたりを中心にこの地で農業を営んでいます。育てている作物の品種は1年間を通して100以上にもなるそうです。

小宮さんの家の畑(画像:小野和哉)



 幸子さんのお話によると、小宮家は安土桃山の時代から続く農家であり、かつては人を雇うほどの大きな規模がありました。現在は畑作や果樹栽培が中心ですが、当時は稲作がメイン。そして小宮さんの家に限らず、この地域一帯が稲作農村でした。

次々と姿を消していった水田

 扇1丁目の町会である「親友町会」のホームページには、「花ぐもりの空にひばりがさえずり野鳥の楽園で菜の花、れんげ、たんぽぽが咲きみだれ、チョウが舞い遊ぶようなのどかな田園風景」と、往時のありさまを回想する文章が載っています。

現在の扇1丁目付近。1909(明治42)年測図の地図と1965(昭和40)年の地図。明治期と比べると周辺は宅地化がかなり進んでいるが、現在小宮さんの家がある周辺は取り残されたように農地が残っている(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

「私が嫁いで来た時は、今の田んぼの西側、保育園のある方まで全部田んぼでした」

と幸子さん。

 扇地区は区画整理事業が入らず、開発の波が比較的ゆるやかな地域でしたが、それでも農地相続のタイミングで水田は次々と姿を消していきました。

祖父と父の意思を引き継いだ最後の田んぼ

 それでは、なぜ扇地区に田んぼが1か所だけ残ったのでしょうか。

「おじいちゃん(幸子さんの義祖父にあたる小宮金太郎さん)が、田んぼ、田んぼってずっと父(故・忠義さん)にいい続けてきたんです。父はそれで意地でも田んぼは続けなければと思って、病床のおじいちゃんに『今年の田んぼはこうだったよ』と報告したい一心で、執念のように田んぼを続けてきました」

と幸子さん。用水が止められたのに、どうやって田んぼを続けられたんですか? と聞くと、「それは当然、雨水と水道しかないじゃないですか」とのこと。

「田んぼに水を入れる時期にちょうど梅雨入りしますので。足りない分は水道水で補っています。用水が止まって下水になってしまったときは、『あそこの田んぼは汚いわ』と評判が立ったようです。それでもおじいちゃんのためにがんばってきた父の姿を思うと、田んぼは手放すことはできない。私たちも意地ですよね。実は父が亡くなって、いよいよ田んぼは終わりかな、私は継げないわとも思っていたのですが、この人(英之さん)が田んぼは残さなきゃといって、それが私の心にズシンと響いたんです」

祖父である故・忠義さんについて中学生の頃から田んぼの手伝いをしていたという小宮英之さん(画像:小野和哉)



 曽祖父(そうそふ)と祖父から受け継いだ田んぼを守りたい――。息子の英之さんが田んぼを残すべきだと考える理由はそれだけではないようです。

「生態系の一部として残しておくのが重要だと思っていて。水のない畑と、水のある田んぼでは、生き物が全然違うんですよね。例えば、代かき(田んぼに水を引き込み、土と水を混ぜ合わせること)をすると、ツバメやシオカラトンボが飛んで来ますし、カモも親子でやって来ます。不思議なのは毎年1匹か2匹かアマガエルがいるんですよ。周りは道路で囲まれていますし、どこから来るんだろうと。でも本当にささいなことなんですけど、例えば仕事から帰ってきた人が夜に田んぼの声を聞きながら家に帰るって、ひとつ豊かな体験じゃないですか。そういったことを考えていくと、田んぼを畑にしたり、宅地にしたりしてしまうのはなんか違うんじゃないかって、自分の中でブレーキがかかるんですよね」

人も動物も共存する「田んぼ」という生態系

 英之さんが守りたいと考える、田んぼを中心とした生態系。その中には、鳥や虫だけでなく、人間もまた含まれます。

 例えば、小宮さんの畑や田んぼで収穫した作物は、他の農家さんと共同で運営している「ファーム136」という扇大橋駅近くの直売所で販売しているそうですが、そこにはボランティアさんが販売員としてお手伝いに来てくれています。

直売所の「ファーム136」。収穫した稲は現在、玄米もちに加工して販売されているそうです(画像:小宮英之)



 また田んぼでは毎年、近隣の小学生を対象にした田植え・稲刈り体験の受け入れをされているそうですが、そこにもまた、農業体験の指導役としてボランティアがサポートに入っています。なかには10年以上関わってくれているベテランもいらっしゃるのだとか。

「(ボランティアからは)田んぼをやめないでとよくいわれます。販売所の仕事や稲刈りが大好きで、生きがいに感じているような人もいらっしゃるんですよね」

と幸子さん。英之さんもそれに同意しながら、次のように説明します。

「やっぱり田んぼなり、販売所なりを今後も残していきたいと思うのは、みんなの生きがいの場所だからという理由もあります。むしろ、その理由が一番大きいかもしれません」

「開かれた田んぼ」の行方とは

 小宮さん親子が思い描く田んぼの未来像も、やはり人が集まる「開かれた田んぼ」のようです。

「実はあの田んぼは真ん中にあぜ道があって、ふたつに分かれているんですよね。今は主に小さい方の田んぼを田植え・稲刈り体験に使っているのですが、できるだけたくさんの子どもたちに体験してほしいという思いがあるので、いずれは田んぼ全体を体験の場にしていければと思います」

 今後は畑も含めて、農地を農業体験以外にもいろいろな人の活動に役立てる場にしていきたいという理想も、英之さんは最後に語ってくれました。

現扇3丁目56番付近での田植えの手伝いの様子(画像:足立区立郷土博物館)



 農地という場は、おいしい作物を生み出すだけでなく、心を豊かにする体験をもたらし、人々の交流を生み出す機能を有します。歴史的に都市空間から排除され続けた農地が今存在するべき理由は何なのか、小宮さんの家が代々残してくれた田んぼはその意味を私たちに教えてくれているような気がします。

取材協力:足立区立郷土博物館

●参考文献
東京都足立区役所 編『新修足立区史 上巻・下巻』(東京都足立区役所)
足立区立郷土博物館 編『足立区立郷土博物館 常設展示図録』(足立区立郷土委員会)

関連記事