下級武士から総理大臣に大出世! 英語力で成り上がった「伊藤博文」の見事な先見性【青天を衝け 序説】

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下級武士から総理大臣に大出世! 英語力で成り上がった「伊藤博文」の見事な先見性【青天を衝け 序説】

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小川裕夫

フリーランスライター

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“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

名前を変えた渋沢栄一

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は5月9日(日)の放送回から一橋家臣編が始まり、渋沢栄一は一橋家の家臣として奔走しています。

 武士になった栄一と従兄・喜作は、堤真一さんが演じる平岡円四郎から名前を与えられ、栄一は篤太夫(とくだゆう)、喜作は成一郎と改めています。現代では名前を変えることはめったにありませんが、当時は名前を変えることは珍しくありませんでした。

 渋沢を一橋家の家臣に取り立ててくれた平岡は、水戸藩士に暗殺されて生涯を閉じます。一橋家の当主・慶喜は前水戸藩主の息子だけに人間関係・敵対関係は複雑ですが、当時は細かな思想の対立が大きなひずみを生じさせていたのです。

 しかし、人の考え方はわりと簡単に変わります。それまでの渋沢は攘夷(じょうい)を主張し、幕府を倒そうと仲間とさまざまな画策をしています。そのため、一橋家に仕えたときには心変わりをしたと仲間からなじられました。

 当時、攘夷を強硬に主張しながらも、翻意したのは渋沢だけではありません。明治新政府で要職を占めた政治家たちの多くは、もともとは攘夷思想を抱いていました。そこから考えを転換させています。

外国の軍艦に軍事力にたじろいだ伊藤博文

 6月6日放送回では、山崎育三郎さんが演じる伊藤博文と福士誠治さんが演じる井上馨がイギリスの外交官と英語で交渉をする場面が冒頭で描かれました。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 長州藩の下級武士として育った伊藤は、松下村塾で学ぶとメキメキと頭角を現します。そして、井上などとともにイギリス・ロンドンに留学。ロンドンまでの道中では、さまざまな国の港に寄港し、伊藤や井上は外国を自分の目で見て貪欲に新しい考え方を吸収しようとしました。

 最初の寄港地である上海で、伊藤と井上は港に並ぶ軍艦を見て腰を抜かしました。そして、諸外国との軍事力の差を痛感。

 このまま攘夷をつづけても、日本は文明・文化の面で諸外国に後れをとるばかりだと考え始めます。諸外国、特に西洋諸国に追いつくためには、開国して海外の技術や文化を積極的に受け入れるべきだと考えを改めたのです。

 攘夷から方針転換した伊藤は、諸外国の書物を読みあさるために語学の勉強に精を出しました。

流ちょうな英語で総理大臣になった伊藤

「青天を衝け」では、イギリス側の通訳としてアーネスト・サトウも登場していましたが、伊藤も井上も流ちょうな英語で会話をしていました。

 実際、伊藤と井上がどれほど流ちょうな英語を話せたのかはわかりませんが、伊藤が英語力にたけていたことは間違いありません。後年、伊藤は岩倉使節団の一員としてアメリカに渡りますが、そこでも流ちょうな英語でスピーチをしているほどです。

伊藤博文(画像:国立国会図書館)



 長州藩の下級武士だった伊藤は、明治新政府が発足した当初から重職を任されています。徳川体制が幕を下ろすと、新たに天皇を中心にした政治体制へと切り替えられます。

 長らく武家政権がつづいてきたこともあり、明治新政府の政治体制は太政官(だじょうかん)をいただく平安時代のようなシステムに逆戻り。一時的とはいえ、時代が100年近く巻き戻されるのです。もちろん、明治維新の原動力になった志士たちは時代にかなう政治体制を構築するべく、刷新作業を急ぎます。

 さまざまな政治体制が検討されながら、1885(明治18)年に内閣制度が新たな政治体制として発足。初代総理大臣に伊藤博文が就任します。当時と現在では異なる点が多々ありますが、総理大臣が国家を代表する政治的リーダーであることは変わっていません。

 内閣制への移行時、国会は開設されていません。当然、国会議員は存在しません。それなのに、どうやって総理大臣を決めたのでしょうか?

 最初の総理大臣は、明治新政府の首脳たちの話し合いで決められました。その話し合いでは、公家出身の三条実美と伊藤が最終候補になっていました。

 三条は、清華家(せいがけ)と呼ばれる公家の出です。清華家は摂家(せっけ)に次ぐ高い家格のため、明治新政府当初の政治体制で三条は太政大臣を務めています。下級武士出身である伊藤とは、比べ物にならないほど高貴な身分と言えます。

 家格だけで選定すれば、伊藤に勝ち目はありません。しかし、井上が「これからのリーダーは赤電報(外国電報)を読めなければ務まらない」と意見したことが決定打になり、初代総理大臣は英語が堪能な伊藤に決まったのです。

女子教育の重要性の知っていた伊藤

 英語力が最後に物を言ったわけですが、伊藤の才能は語学力だけではありません。

 伊藤は留学で当時の覇権国家であるイギリスを見てきた経験から、明治新政府が発足した当初から製鉄・鉄道・鉱山などを担当する省庁を創設するべきとの意見を出していました。誰よりも近代化の重要性を認識していたのです。

 伊藤の意見は採用され、1870(明治3)年に工部省(殖産興業政策担当の中心的な官庁)が発足。現在の大臣に相当する卿に、伊藤が起用されます。

 伊藤は工部省を発足させただけではなく、次世代を担う技術者の養成も重要と考えていました。それらを担う工部寮という学校を創設。後に東京大学工学部に連なる学校は多くの人材を輩出。日本を一等国へと押し上げました。

 工部省は内閣制度が発足した1885年に農商務省と逓信省に分割されて廃止されました。短命で役割を終えたものの、その目的とされた殖産興業と工業振興といった方針はその後の政府にも引き継がれていきます。

 明治新政府は殖産興業の初手として1872年に富岡製糸場を開設していますが、このときに伊藤と渋沢はともに大蔵省(現・財務省)の役人として汗を流しました。また、渋沢は女子教育を充実させるために東京女学館や日本女子大学校の立ち上げを支援していますが、渋沢に女子教育の重要性を説いたのは伊藤でした。

文京区目白台にある日本女子大学(画像:(C)Google)



 長州藩の下級武士だった伊藤が一国の宰相まで上り詰めたことは、同じく農民から武士、そして日本を代表する実業家にまでなった渋沢と重なるところがあります。貪欲に新しい知識を吸収しようという姿勢は、伊藤と渋沢に共通しています。

 伊藤が出世できたのは、ひとえに学問に対する意欲です。伊藤は誰よりも勉学に励み、そして諸外国の書籍を取り入れて新しい知見を身につけたことが政治家として大いに役立つことになったのです。

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