今は地域の防犯見回り 82歳男性が「自衛官」として勤め上げた40年間の記憶

東京で暮らし、働く人々は、どんな思いを抱いて生きているのでしょうか。1400万人もの人がいるけれど、誰もがかけがえのない「ひとり」であり、それぞれの夢や希望、記憶を胸に秘めています。そんな「東京のひとり」たちを追う企画、今回はかつて海上自衛隊の1等海佐を務めた82歳男性の物語です。


東京に住む元1等海佐

 筆者が暮らす東京23区内の巨大マンションには、実にさまざまな人たちが住んでいます。

 スナックのママ、サラリーマン、宅配便運転手、中小企業の経営者、スーパー店員、校長先生、区議会議員、東日本大震災で家を流され命からがら逃げてきた家族、自称・メダルに縁のなかった元オリンピック選手、市民マラソンの人、フィリピンなど東南アジア系の人や、いつもニコニコのインド人、在日中国人、欧米系白人。

 さらにシルバー人材センターで働くお年寄り、騎手、祈祷師(きとうし)、シングルマザー、町会役員さん、元芸人、猫ハウスの女性……。多彩な顔ぶれは、大都会の縮図たるゆえんです。

 82歳になる一瀬幸一(いちのせ こういち)さんは、海上自衛隊の1等海佐だったそうです。

54歳当時の一瀬さん。海上自衛隊「20年誌」から(画像:下山光雄)



 1佐というと昔は大佐の階級で、一般の隊員からすると雲の上の人。一瀬さんは妻を早くに亡くし、娘と孫との3人暮らしで、最近はときどき自衛隊の集まりに顔を出したり、スーパーへ買い物に行ったり、穏やかな老後を楽しんでいます。

 地域の防犯見回りに熱心で、そのことに関しては誰からも一目置かれています。顔もちょっとコワモテですから、防犯には適任なのです。

少年時代に見た長崎原爆

 一瀬さんは1939(昭和14)年、長崎県大村で農家の4人兄弟の次男として生まれました。父親は農業のかたわら水道局に勤めていました。

現在の長崎県大村市(画像:写真AC)



 米、麦、野菜の作物は、国への食糧供出もありましたが家族が食べるのに不自由がないくらい。農耕馬も持てない零細農家でしたが、両親はとにかく働き者だったのです。

 一瀬さんも小学生ながら借りてきた馬のくつわを取り、暗くなるまで畑仕事に精を出しました。暇な日は友達と大村湾で泳ぐのが何よりの楽しみでした。

 まだほんの6歳のとき、長崎に投下された原爆も体験しています。

 空襲警報で逃げ込んだ防空壕の中で強い衝撃を受け、すぐ外に出ると、山の反対側にキノコ雲がもくもくと上がっているのが見えました。近くに大村の航空隊もあったのですが、迎撃していく飛行機は1機もなかったそうです。

「ウソも方便」

 就職難の1955(昭和30)年春、一瀬さんは中卒の15歳で募集のあった海上自衛隊少年自衛官の1期生徒に応募します。

 試験があって、一瀬さんは泳ぎが上手だとアピールするためにウソをつました。「遠泳で有名な臼島(うすしま)まで泳ぎました」と言ったら、試験官5人全員が「おーーっ!」とうなって、合格になったそうです。

 世の中、夢に近づくにはウソも方便とはっきり分かったのです。本人いわく「大きなウソはこれ1回きりです」。

 京都府の舞鶴に入隊後の訓練は厳しく、5分前の精神で芯まで鍛(きた)えられました。弁解は一切許されません。

19歳で3等海曹に

 一瀬さんの話は続きます。

 そもそも、1952(昭和27)年に横須賀市で海上警備隊が誕生し、2年後、海上自衛隊に改変されて間もない1期生入隊ですから、今考えると、何事も旧海軍式で試行錯誤の教育だったのでしょう。スパルタ教育が当たり前だったとも言います。

海上自衛隊の施設がある横須賀(画像:写真AC)



 術科学校では通信、水測および電子整備を学びます。おとなしく目立たない性格の一瀬さんは成績が1番になったりビリケツだったり。英語が苦手で「ジャック & ベティ」しか分からない。勉強には苦労しました。3等海120名(5名補欠)の定員が辞めたりして4年で95名まで減っていました。

 19歳で3等海曹になり、自衛官らしくなりましたが、今度は1963(昭和38)年に広島県の江田島に幹部候補生として入校します。赤レンガの学生舎は歴史的な建物です。ここでも鍛えられました。

ニミッツ提督との対面

 翌年、東京オリンピックの年に、練習船「ありあけ」で3か月の遠洋航海を経験。「これは自分の生涯を通して一番の出来事かもしれない」と一瀬さんは言います。

 ミッドウェー島の米軍基地、ハワイ真珠湾でのチェスター・ニミッツ提督(第2次世界大戦中の太平洋艦隊司令官)の講演も印象深かったそうです。ニミッツと言えば戦争映画にたびたび登場します。

 対面した提督は最晩年の79歳。

 終戦の年の1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で米国代表として降伏調印に署名したり、日露戦争日本海海戦の英雄である東郷平八郎を胴上げした(幹部候補生5名と東京湾戦勝祝賀会に参加)こと、日本海海戦の旗艦三笠を戦後に保存活動をやったこと、日米協力の重要さ、東郷神社のこと、皇居の爆撃に反対したことなどを次々と話してくれました。

 ハワイのワイキキでは日系女性と盛大な懇親会もやってくれました。遠洋航海はその後、北米を順々に回り帰国の途につきました。

海上自衛隊の「3S精神」

 海上自衛隊はスマート(機敏)、ステディ(着実)、サイレント(静粛)の「3S精神」。

 一瀬さんの職種は戦術航空士(TACCO)といい、鹿屋航空基地で対潜哨戒機に搭乗し、通信、位置のキープ、海中に潜る潜水艦探索や発見と追尾、ソノブイの投下敷設など、操縦以外のすべてに関わります。

 夜は三つ星を見て方位と角度を専用コンパスで計測し、ナビゲーションで残量燃料を把握し、飛行している位置を確認する。強風などの気象状態も関わるため、計算に計算の繰り返し。間違いは絶対に許されません。

 最初の哨戒機はP2V-7といって米軍から無償貸与された16機のうちの1機。自衛隊では「おおわし」と名付けました。次はP-2J、そして世界一の対潜能力のあるP-3C。一瀬さんが現役中の機種はここまで。今はP-3Cの後継機のP1になっています。P1は対潜だけでなく対艦攻撃も飛躍的に向上しているそうです。

日進月歩の技術革新

 当然ですが、防衛技術は搭乗機だけにとどまらず全てに及んでいて、一瀬さんが最初の頃はモールス信号だったのが、通信も衛星通信が主役となり、日進月歩、驚く技術革新です。

新宿区市谷本村町にある防衛省(画像:写真AC)



 自衛官の後半は、六本木にあった防衛庁(現・新宿区市谷本村町の防衛省)を1994(平成6)年に退官するまで統幕と海幕の双方で7年半も機密任務に就きました。全て特定防衛秘密になっているため、内容は死ぬまで話せないそうです。

今の平和を誰より願う

 飛行中に機体故障で生死に関わった体験も何度かあるそうで、あわや墜落しかけたこともあったとか。ただ、基地に帰ってから怖い先輩に「俺たち、重力に逆らって飛んでいるんだから落ちて当たり前だ」とどなられたと言います。

 一瀬さんの人柄をひと言で表すとしたら「人情に篤(あつ)い頑固じいさん」といったところでしょうか。筆者とは、会えば長い立ち話をしてくれるような、実にウマの合うご近所さんです。

 そして、どこの国とも仲良くして、今の平和がいつまでも続いてほしいと一瀬さんは強く願っているのです。


【貴重画像】昭和30年の海上自衛隊「少年自衛官」たち

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