雑木林だらけだった東京「国立」が都内有数の文教地区になるまで

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雑木林だらけだった東京「国立」が都内有数の文教地区になるまで

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小西マリア

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多摩地域中部に位置する国立市。その名前が定着するまでには長い時間がかかりました。フリーライターの小西マリアさんが歴史からひも解きます。

合成地名の代表格・国立市

 東京都の多摩地域中部に位置する国立市は、「合成地名」の代表格といえる地名です。合成地名とはふたつ以上の地名から、文字の一部を取ってつくった新地名のこと。日本では合併などのときによく生まれます。

東京都国立市(画像:(C)Google)



 東京都では国立市のほか、大森区と蒲田区が合併してできた大田区、昭和町と拝島村が合併してできた昭島市などがあります。

 しかし国立市だけは例外です。国立市は東西にある国分寺と立川からそれぞれ一文字ずつを取って生まれた地名なのです。

もともとは谷保村

 そんな国立市が国立町として町制を施行したのは、1951(昭和26)年のことです。国立駅自体は1926年に開業していたにもかかわらず、自治体が後からできたわけです。駅の名前が広く知られ、その後、自治体の名称になったという、極めて珍しい事例です。

 現在の国立市はもともと谷保村と呼ばれる地域で、国立駅周辺は武蔵野の雑木林が生い茂る「ヤマ」と呼ばれる地域でした。そんな武蔵野が発展するきっかけは、西武グループの源流企業として知られる箱根土地による開発と分譲によるものでした。

 この計画の始まりは、東京商科大学(現・一橋大)の初代学長・佐野善作と箱根土地を率いた堤康次郎によるものでした。

1919(大正8)年に発行された千代田区一ツ橋周辺の地図。「高等商業校」の記載がある。翌1920年に大学昇格、東京商科大学となる(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 もともと東京商科大学は現在の千代田区一ツ橋にありました。現在、如水会館(千代田区一ツ橋)があるのが旧校地の一部です。校舎は1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害を受け、授業を行うことが立ちゆかなくなります。

 ひとまずは幡ヶ谷の東京高等学校校舎などを間借りして授業を再開した後に、1924年に石神井にあった運動場用の土地を利用して、新築の校舎を建てて移転(練馬区の石神井稲荷にはその記念碑があります)。ただ、この校舎はあくまで仮校舎でした。

堤康次郎が進めた学園都市計画

 当初は、そのまま石神井の仮校舎が大学の移転地となるはずでした。なぜなら、当時は大泉村と呼ばれた同地では関東大震災以前から東京商科大学の移転を柱にした、堤による学園都市計画が進んでいたのです。

1924(大正13)年に発行された現在の国立市の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 関東大震災を契機として東京の人口が郊外へ移動し始めると、計画も本格化します。堤は地元の名士や地主を箱根温泉に招き学園都市の計画を語ります。東京郊外の農村地帯が学園都市に生まれ変わるという計画に感動した地元の人たちは協力を惜しまなかったといいます。

 こうして堤は、現在の練馬区大泉学園から埼玉県新座市栄までの50万坪あまりの土地を購入、計画を始めます。土地は平らではなかったため、造成は大工事です。あちこちに線路が敷かれてトロッコで土砂が運ばれて、土地の整備が進みました。

 武蔵野鉄道(現・西武池袋線)には三角屋根のハイカラな大泉駅(現・大泉学園駅)も建設されます。出来上がった新たな街の名前は大泉学園町と命名されました。売り出しは大々的で新聞やラジオで宣伝がうたれ、チンドン屋が回り、当時のスター・水谷八重子を招いての歌謡ショーも開かれました。

 ところが、肝心の大学は来なかったのです。この理由は、それ自体が歴史研究の対象になるくらいに謎に満ちています。もっとも確かな理由は、造成した土地が駅から1km以上離れていたことや、都心から郊外へ移転する人の多くは中央線沿線を好んだためとされています。

「国立大学町」と名付けて売った堤

 一方で『国立市史』などでは、1923年の時点で東京商科大学が国立市に移転することは内々に決まっていたことを指摘しています。こうなると、大学が来ないことがわかっていながら学園都市を造成したことになります。

 ただ、それは少しうがった見方かもしれません。移転に向けて箱根土地と東京商科大学の間で最終的な契約が結ばれたのは1925年のことです。その間は、どちらに移転するのか、国立のほうが優勢ではあるが不明確だった――と考えるのが自然でしょう。

 この点において、駅前から徒歩圏内に新たな街をつくれる国立のほうが明らかに有利だったといえます。もっとも堤が国立の土地を「国立(くにたち)大学町」と名付けて売り出したのも、契約が結ばれる1年前の1924年です。つまりビジネスとして、両てんびんをかけていたわけですが、どちらかに大学が来る公算が高かったとしても、かなりの巨額な賭けです。

 なお東京商科大学は国立駅開業の翌年、1927年に国立に移転しています。

1930(昭和5)年に発行された現在の国立市の地図。「国立大学町」の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 現代の会社でこんな先行投資をしたら、たとえ話がうまくまとまっても経営責任を問われそうです。いまだ日本を代表する企業人として、その人間としての「濃さ」が語られる堤だからこそできた事業だったでしょう。

 こうして出来上がった学園都市は、前述の通り、駅名が自治体の名前となります。ただ、国立町(1951年成立。1967年に市制施行)という名称はすんなり決まったわけではありません。新しい町である駅周辺の住民は国立を推す一方、古くからの人が住む農村部では谷保にすべきと地域を二分する争いになったといいます。

 今では東京のなかでも住民の愛郷心が特に強い地域として知られる国立市ですが、その名前が愛されるようになったのは実に最近のことだったのです。

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