野球と恋愛――青春漫画の巨匠「あだち充」の作品はなぜ私たちの心を動かすのか

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野球と恋愛――青春漫画の巨匠「あだち充」の作品はなぜ私たちの心を動かすのか

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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長きにわたって人気の青春作品を描き続けてきた漫画家・あだち充。そんなあだち作品と舞台となった東京のエリアについて、法政大学大学院政策創造研究科教授の増淵敏之さんが解説します。

永遠の「青春漫画」の巨匠

 あだち充は、本当に息の長い漫画家です。そして今でも、『みゆき』(1980~1984年)や『タッチ』(1981~1986年)のような青春漫画を描けることにとても驚きます。

 あだち充は、永遠の「青春漫画」の巨匠です。筆者(増淵敏之。法政大学大学院教授)が彼の作品に出会ったのは、確か単行本の『ナイン』でした。

「タッチ 1 完全復刻版」の表紙(画像:小学館、あだち充)



 この作品は「週刊少年サンデー増刊号」に1978(昭和53)年から1980年まで、連載され、ストーリーもオリジナリティーあふれる青春野球漫画でした。これが筆者のあだち充体験の原点です。

 その後、『みゆき』『タッチ』『H2』(1992~1999年)を読んで、現在は16巻が先日出たばかりの『MIX』(2012年~)を楽しんでいます。

最も印象的な最終回

 筆者はあだち作品が青春野球漫画、もしくは青春スポーツ漫画たるゆえんは、魅力的な少女が次々と登場し、主人公と淡い恋愛関係を築く――という「女性の描き方」にあると考えています。

『タッチ』は単行本の発行部数が1億冊を超えており、アニメや映画、テレビドラマ化され、押すに押されぬあだち充の代表作です。

『ナイン』の表紙(画像:小学館、あだち充)

 最も印象的なのは最終回です。

 甲子園の開会式を抜けて主人公の上杉達也は新体操の全国選手権で同地を訪れていたヒロイン・浅倉南に河原で告白をします。物語はそこから一気にエンディングへ。

 決勝戦は描かれず、話は夏から秋へ飛びます。達也と、もうひとりの主人公で達也の双子の兄弟である、亡くなった和也の母親が彼らの部屋を掃除しています。

 その後、母親が去った部屋に残された二段ベッド、窓辺に落ちた葉、和也の写真……そして最後に「第68回全国高校野球選手権優勝」と書かれた皿が描かれるのです。

秀逸な「風景や小道具の使い方」

 筆者はあだち作品の「風景や小道具の使い方」について、いつも心を動かされます。

 その理由は、何気ない風景を重ねることで時間の経過やその陰に隠れた出来事を予感させ、また、何かの思いを仮託しているように感じられるからです。目を見張らざるを得ません。

 映画でいえば視点の違う複数のカットを組み合わせる、モンタージュのような手法です。ですから、あだち充の作品は映画を見ているような気持ちなります。

 なお『タッチ』で描かれなかった決勝戦は、30年のときを経て『MIX』の中でビデオ映像として描かれています。

作中に登場する練馬周辺の光景

 群馬県伊勢崎市出身のあだち充は、高校を卒業して漫画家を目指すために東京へ引っ越しし、『くたばれ涙くん』(1969~1970年)や『750ライダー』(1975~1985年)で知られる、石井いさみのアシスタントとしてしばらく働いていました。

 最初に住んだのは目黒区の東大駒場前で、新宿区の中井、練馬と転居したようです。そのため、『みゆき』以降の作品には練馬周辺の風景が描かれています。

 2018年に出版された『漫画家本vol.6 あだち充本』(小学館)によれば、『みゆき』『タッチ』連載時代の仕事場は練馬区桜台だったといいます。そんな訳で『みゆき』には連載当時の練馬駅や周辺の風景が登場します。

『タッチ』の和也が交通事故で亡くなった場所は、練馬区役所(練馬区豊玉北)近くの交差点だと言われており、『タッチ』にも練馬駅周辺の風景が描かれています。

練馬駅近くにある喫茶店「アンデス」の外観(画像:(C)Google)



 中でもあだち充のファンの「聖地」として知られているのが、練馬駅すぐの喫茶「アンデス」(同)です。

 現在では幾分レトロ感の漂う喫茶店ですが、この店は『タッチ』の浅倉南の実家である喫茶店「南風」のモデルと言われています。なお「アンデス」で最も有名なメニューは、作品にも登場するナポリタンです。

『H2』主人公の高校も練馬区近くから

『H2』でも、練馬駅はもとより大泉学園駅周辺などの西武池袋線沿線の風景が描かれており、主人公の国見比呂が通う高校の名前も、ずばり「千川」高校です。

 練馬駅から東に数km行ったところには千川駅(豊島区要町)があり、また豊島区の東長崎から石神井につながる千川通りも桜台駅、練馬駅の駅前を通っています。ちなみに両駅間は、春の桜の名所として知られています。

千川駅の位置(画像:(C)Google)



 千川通りの下には、江戸時代に掘削された千川用水が地下水路として流れているそうです。千川用水は有名な玉川上水の分流という位置付けで、江戸の六上水にひとつに数えられています。

 余談ですが、千川高校の地区割りは北東京で、ライバルで親友の橘英雄が通う明和第一高校は南東京。実際の全国高校野球選手権の地区割りは西東京、東東京となっています。

「クロスゲーム」(2005~2010年)でも、やはり富士見台駅(都練馬区貫井)、練馬駅、石神井公園(同区石神井台)、練馬区役所前の歩道橋など練馬区の風景が満載です。

 筆者が初めて読んだあだち作品『ナイン』のヒロイン・中尾百合が使用していた通学定期券も「練馬-江古田」だったように記憶しています。

 練馬区在住の筆者は、恐らくあだち充が歩いていた周辺で暮らしているのでしょう。周辺を歩くと、ちょっとした幻視状態に陥り、とても不思議です。

夏の高校野球が開催されることを願って

 さて2020年春の選抜高校野球大会は新型コロナウイルスの影響で、残念なことに史上初の中止が決定しました。確かに致し方ない判断ですが、選ばれた高校の野球部員たちはさぞ悔しいことでしょう。

夏の全国高校野球大会が毎年行われる、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場の外観(画像:写真AC)

 一日も早く事態が収束し、夏の全国高校野球大会が無事に開催されることを願いながら、一高校野球ファンとして、春の少し先の夏に思いをはせることにします。

 そういえば、『ナイン』の脇役、山中二郎と安田雪美の雨のキスシーンにはこんな言葉が添えられています。あだち充が「野球と恋愛」という新境地を開いたこの作中で最も印象的なシーンです。

「また夏がくる…」

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