2度のブームも今や風前の灯火 ボウリングはコロナ後に復活できるか?

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2度のブームも今や風前の灯火 ボウリングはコロナ後に復活できるか?

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小西マリア

フリーライター

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日本ではかつて2度のボウリングブームが起こり、ゴールデンタイムに関連番組が放送されていました。その波乱の歴史について、フリーライターの小西マリアさんが解説します。

日本初のボウリング場は1952年完成

 ボウリングはかつて、娯楽の定番でした。繁華街にはいくつものボウリング場があり、年代を問わず大勢の人がその腕を競い合っていました。

 ボウリングはこれまで2度ブームになっています。最初のブームは1960年代後半です。その背景にはアメリカ文化への憧れがありました。

ボウリング場のオブジェ(画像:写真AC)



 日本初のボウリング場は、1952(昭和27)年完成の東京ボウリング場です。現在、複合施設「テピア」(港区北青山)のある場所で、神宮球場と秩父宮ラグビー場の近くでした。

 東京ボウリング場は、単なるボウリング場ではありませんでした。場内にはレストランやビリヤード、ピンボールマシンなどが設置されており、いわば最先端のおしゃれな娯楽施設だったのです。

 ボウリング場の片隅にゲームコーナーがあったり、ジュークボックスが設置されたりしていたのは、この流れを汲むスタイルといえます。なお東京ボウリング場は、後に吉祥寺へ移転。現在は「近代ボウリング発祥の地」の碑を残すのみとなっています。

大人の社交場から庶民の娯楽の場へ

 東京ボウリング場は庶民の娯楽の場というより、おしゃれな大人の社交場でした。

 来場客の多くは米軍関係者や外国人で、そこに芸能人や業界人がたくさん集まっていました。ボウリングを楽しんだ後は、六本木のピザハウス「ニコラス」やイタリアンレストラン「キャンティ」に食事に行くというのが定番のスタイルだったといいます。

港区麻布台にある「キャンティ」(画像:(C)Google)

 そんなボウリングが庶民の娯楽となったのは、1969年に第1回の女子プロボウラー試験が実施されてからです。

 ボウリングへの関心はこの頃すでに高まっていましたが、1970年に中山律子さんが女子プロ初の公認パーフェクトゲームを達成したことで、人気は急上昇。1960年に全国で3か所しかなかったボウリング場は、1972年に3697か所と激増したのです(『週刊現代』2014年7月12日号)。

ゴールデンタイムにボウリング番組放送

 この頃のブームの一番の凄さは、テレビ局各局がゴールデンタイムにボウリング番組を放送していたことでしょう。

 中山さんのパーフェクトゲームも、NETテレビ(現・テレビ朝日)が毎週土曜日18時から放送していた『レディズ・チャレンジボウル』の試合中に達成されたものでした。

 当時放送していたボウリング番組を調べると、TBSの『クイーンズ・ボウリング』は日本の女子プロボウラーが外国のプロボウラーと試合をする国際的な番組で、毎週金曜日20時から。一方、日本テレビでは毎週金曜日19時から、女子プロボウラーと芸能人が対決する『スターボウリング』を放送していました。

ボウリングのボール(画像:写真AC)



 また、多くの人が記憶しているであろうテレビ東京系列の『ザ・スターボウリング』は1978年からの放送。この番組は、ブーム終了後も1998年まで放送され、『演歌の花道』に次ぐ長寿番組となりました。

21世紀に入るとブームは衰退

 ブームは1980年代に入ると沈静化し、1991年頃から再び熱気を帯び始めます。2度目のブームの背景には、会社やサークルなどでボウリングが親睦を深めるものとして注目されたことがありました。

 この頃になるとボウリング場は設備のリニューアルが進み、スコアのコンピューター処理は当たり前。ボウリングを楽しんだ後は、同じ建物にあるレストランやカラオケで楽しむといった具合でした。都内の繁華街にあるボウリング場は2次会でよく利用されていました。

 ところが、21世紀に入るとブームは衰退していきます。

 理由はいくつかありますが、よく語られるのは「レジャーの多様化」です。また衰退が見え始めた頃、ボウリング場は施設の老朽化を迎えていました。多くは1970年代のブームで作られたため、今後収益を見込めないと判断されると、マンションなどに建て替えられました。

全国のボウリング場の数(画像:ULM編集部)

 そして、1972年に全国で3697か所あったボウリング場は、2008(平成20)年に987か所にまで減少しています。

ボウリングの利点を再認識すべし

 1970年代初頭のブーム以降、娯楽として定着しながらも、ボウリング場の経営には波がありました。

 1972年に全国で3000か所を超えた頃には過当競争となり採算が悪化、一時は1000か所を割り込むも、再び回復するという流れがありました。前述のように、このときはスコアの自動化など、設備のリニューアルがよい方向に作用しましたが、21世紀以降はそうした革新は起きませんでした。

ボウリングをプレイするイメージ(画像:写真AC)



 新機軸が生まれずに陳腐化したことが、衰退の大きな原因となったのは間違いないでしょう。

 ボウリングをプレイすること自体はとても楽しいですが、いかんせん目新しい要素がないため、体験する機会が減っています。しかしルールは単純明快なため、今後もなくなることはないでしょう。

 なにより、ボウリングには「体力を余り使わずに」身体を動かせる、友人と交流できるという利点があります。このことは今一度、再認識される価値があるのではないでしょうか。

 現在、コロナ禍でボウリング場の経営は危機的状況に置かれています。それを応援するためにも、コロナ禍が明けたら、なまった体をボウリング場で鍛えてみるのもよいかもしれません。

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