葛飾・足立・江戸川区はブランド化されずにひっそり残った「等身大の解放区」だ【連載】東京下町ベースキャンプ(1)

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葛飾・足立・江戸川区はブランド化されずにひっそり残った「等身大の解放区」だ【連載】東京下町ベースキャンプ(1)

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吉川祐介

ブログ「限界ニュータウン探訪記」管理人

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かつて江戸近郊の農村部だった東京東部の「下町」。そんな同エリアを、ブログ「限界ニュータウン探訪記」管理人の吉川祐介さんは新たな「拠点」と位置付け、再解釈を試みています。

定義が曖昧な「下町」

 1400万人もの人口を抱える東京は、駅や地域ごとに、その街の代名詞ともなる特色やブランド、イメージを持っています。

 そんなイメージのひとつとしてよく語られるものに「下町」があります。しかしこの「下町」という言葉は、今日では定義が曖昧なまま多々使用されています。

葛飾区東四つ木。路地の奥には、今も操業を続ける町工場とのちに建てられた住宅が混在する(画像:吉川祐介)



「下町」として頻繁にメディアに登場するのは、浅草や深川、両国、また俗に「谷根千(谷中・根津・千駄木)」と呼ばれる台東区・文京区周辺など、主に江戸時代からの寺町や旧町人街です。

 しかし23区東部の、葛飾区、足立区、江戸川区など、元々は江戸近郊の農村部で、戦後になって急速に宅地化が進められた地域もまた「下町」と呼ばれます。

役割を終えた荒川以東の「下町」

 ところが、江戸のイメージと直結し観光産業も盛んな旧町人街と比較すると、荒川以東、中川・江戸川流域周辺の「下町」エリアは、その明確なカテゴライズとは裏腹に、やや漠然とした印象で、広く耳目を集める機会は多くありません。

 商業地が少ない純然たる住宅地であるためですが、もうひとつ、そもそも荒川以東の「下町」は、その歴史を振り返ると、既に当初の役割はいったん終えているためです。

葛飾区堀切。大きな注目を集める機会も少ない荒川以東の下町(画像:吉川祐介)

 戦後、日本が経済発展を遂げる中で、かつて江戸の食料庫として機能した23区東部の農地は次々と工場用地に転用され、職を求めて多くの労働者が流入しました。

 当時、あまりに急速に、そして無秩序に進む宅地化の波に対し、区による緑地指定など一定の開発規制も試みられたものの、実際にはほとんど効果はなく、包括的な都市計画は後手に回されたまま町は膨張していきました。

 同様の現象は23区南部の大田区など他地域でも見られますが、東部はより広範囲に住宅と工業施設の混在が広がっています。

迷路のような路地奥にたたずむ町工場

 時はたち、宅地化の波がさらに郊外へと進むにつれて、かつての家内制手工業の延長線上にあるような小さな町工場の多くは姿を消し、労働者も引退、あるいはより広い住まいを求めて町を去っていきました。

 閉業した町工場の跡地には、また新たな民家や集合住宅等が建築され、町並みの更新は現在も続いていますが、まるで迷路のように複雑に入り組んだ路地の奥には、現在もなお操業を続ける工場と並び、いまだ高度成長期に建築された膨大な数の集合住宅や戸建てが残されています。

江戸川区鹿骨。高度成長期に建てられた集合住宅が今も数多く残る(画像:吉川祐介)



 町工場が数を減らしたと言っても、住宅地として引き続き利用されていることに変わりはありませんが、一部の再開発エリアを除き、人気の町として確固たる地位を築いているとは言い難い現状があります。

 これは都心方面の通勤者のためのベッドタウンとして発展した他地域と異なり、通勤を含めた日常生活を地域内で完結させていた労働者の町として利用されてきた経緯があるため、今日においても、特に私鉄沿線は都心への交通網が比較的弱い点が理由です。

「拠点」的存在となりうる東京東部の「下町」

 しかし、23区の不動産市場では必ずしも有利とは言えないその条件を、逆手にとって生かすことが可能なポテンシャルを、東部の下町は有しています。

 葛飾、足立、江戸川の3区はいずれも23区で地価が最も安く、もちろんそれは賃料相場に反映されています。賃料が他区より安めと言っても、他区同様、上記の3区であれ平常時は日用品の調達に困るような事態は起こり得ず、その都市機能には申し分のないエリアがほとんどです。

建築から50年を経たアパートの一室。今も廉価な「拠点」として供給され続けている(画像:吉川祐介)

 イメージの漠然さも、捉え方によっては有利なものとなります。

 町のイメージが希薄ということは、ブランド化による付加価値がないということであり、従ってそこで暮らす人たちの構成もおのずと雑多なものとなり、町のイメージに合わせて、ことさら自らを飾り立てる必要もありません。

 車の往来も少ない、人が大挙して押し寄せることもない静かな路地の奥で、その気になれば必要最低限の下準備で構えることができる都市の住まい――。それは、ややロマン主義的な表現を許してもらえば、住まいと呼ぶより「拠点」「ベースキャンプ」に近いものかもしれません。

都心部の隣にある「日常」

 改めて考えてみれば、23区東部の下町は工業地域として稼働していた時代からずっと、そんな「拠点」としての役割を担ってきました。

 かつて地方から手荷物ひとつで上京した労働者が、まずはこの町で生活基盤を整え、その後人生の転機を迎えて転出していったのと同じように、今でも東部の下町は、東京での生活を始める足掛かり、新生活の拠点として利用され続けています。

首都・東京が持つ強力な後背地として、戦後の「下町」は今も機能し続ける(画像:吉川祐介)



 東京は大きな街です。東京には、文化の発信地として名高い地域や、ブランドイメージを確立させた地域があまた存在します。しかしそのすぐ背後には、地味で、訴求力こそ他地域に及ばないものの、流行の言葉を借りれば「コスパ」の良い、気軽に住める町が広がっています。

 まずは拠点を構えたうえで、目指す職業や趣味・活動の訓練を積む、東京が誇る交通網を生かして見聞を広める、あるいはどこか地方に別の拠点を構えつつ、利便性の高い23区にもう一つの拠点を残しておく――。

 等身大の自分のまま、人それぞれが持つ可能性を広げることができる町が、当たり前の日常の光景として、華やかな都心部と隣り合わせに同居しているという、このことこそが、なによりも東京という町が持つ懐の広さ、力強さなのだと思います。

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