江戸末期の品川に27邸もの「大名屋敷」が集まっていた理由
2021年4月23日
知る!TOKYO東京都の区部南部に位置する品川区。かつてここには多くの大名屋敷がありました。いったいなぜでしょうか。その歴史とともに、フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。
歴史と魅力あふれる品川区内の公園
戸越公園(品川区豊町)は風光明媚(めいび)な庭園のある公園です。

元々は熊本藩・細川家の下屋敷(別邸)に始まり、伊予松山藩などが屋敷を設けた土地で、園内はそうした歴史を感じさせます。面積は決して広くありませんが、この公園のためだけに近所に住んだ人もいるのでは? と思うくらいに立派。こんな公園を無料で開放しているなんて、品川区も太っ腹です。
最寄りは大井町線戸越公園駅で、再開発で盛り上がる大井町エリアまでもすぐです。ちなみに、同じ品川区で言えば、池田山公園(品川区東五反田)も負けず劣らずの魅力で、こちらは元々岡山藩池田家の下屋敷でした。
江戸時代の大名はつらいよ
さて江戸末期の1856(安政3)年、品川区域には27もの大名屋敷がありました。当時、江戸の街から見ると現在の品川区域は郊外にあたりますが、なぜそのような場所に多くの大名屋敷があったのでしょうか。
品川区が2014年に発表した史誌『品川区史 2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』では
「大名の多くが人生の目標としたのが、趣味に生きる隠居生活」
だったと記しています。

江戸時代の大名は、家来から「お殿様」と呼ばれて威張っているわけにいきませんでした。なにしろ参勤交代で、1年ごとに領地と江戸とを往復しなければなりません。
そんな落ち着かない生活をしながら領地を運営しつつ、幕府から命じられた役目も果たさなくてはいけないわけです。自分ひとりの振る舞いに、家来たちとその家族の運命もかかっているわけですから、プレッシャーは相当のもの。
それに譜代大名(関ケ原の戦い以前から徳川家に属した家臣。幕府の要職を占めた)であれば、幕府の役職をめぐって、外様大名(譜代以外の大名)なら官位や席次をめぐって、ほかの大名家との争いもありました。
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