渋沢栄一は国民的飲料「牛乳」の普及まで関わっていた! 背景にあるエピソードとは【青天を衝け 序説】

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渋沢栄一は国民的飲料「牛乳」の普及まで関わっていた! 背景にあるエピソードとは【青天を衝け 序説】

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小川裕夫(フリーランスライター)

“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

1854年に日米和親条約締結

 大河ドラマ「青天を衝け」は、俳優・吉沢亮さんが演じる渋沢栄一が主人公です。幕末、日本は鎖国政策で海外との交渉を厳しく制限していましたが、マシュー・ペリーの来航により開港を迫られます。以降、諸外国から外国人が来日するようになりました。

 江戸幕府に開国を迫ったペリーは、アメリカを代表した使節です。そのため、幕府は1854(嘉永7)年にアメリカと日米和親条約を締結。これにより、長い鎖国の時代は幕を下ろします。

 開国と言っても、幕府が日米和親条約で外国船の入港を認めたのは北海道の函館と静岡県の下田の2港です。江戸に近いのは下田ですから、多くの外国船は下田へと寄港します。アメリカも下田の玉泉寺(静岡県下田市)を領事館として使用。そこを拠点に日米外交は展開されていきました。

明治に入ってから本格化した牛乳生産

 日本へ赴任してきたタウンゼント・ハリスは、外交官として玉泉寺に長期滞在することになりました。その長期滞在でハリスを悩ませたのが食事です。

 国が違えば、さまざまな文化が異なるのは当たり前です。ハリスが滞在した玉泉寺もアメリカの建物にはない畳・襖(ふすま)などがあり、生活スタイルに戸惑うことはあったでしょう。異なる文化の違いをそれほど気にしなかったハリスですが、牛乳が飲めないことにはかなり不満を抱いていたようです。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 江戸時代の日本では、徳川吉宗治世時に千葉県で酪農が開始されました。千葉県で始まった酪農では、白牛酪(はくぎゅうらく)という乳製品を生産したことが記録されています。これは、現在でいうバターのような食品だったようです。

 吉宗の時代から日本で取り組まれていた酪農ですが、日本人の間で乳製品のなじみはありません。あまり食用としては広まっていなかったゆえに乳製品の生産は限定的で、酪農は一般的とは言い難いものでした。

 牛乳生産は、ハリスのような牛乳を欲する外国人が増えるようになった幕末に少しずつ始まります。それでも、日本で本格化するのは明治に入ってからでした。

本格化の背景にあった士族救済政策

 牛乳生産が本格化した理由は、士族授産(しぞくじゅさん)でした。

牛乳のイメージ(画像:写真AC)



 明治新政府が発足すると、それまで武士として生活を送ってきた人たちが、一斉に無職になりました。政府は失業した武士の救済策として新事業を立ち上げました。これが士族授産と呼ばれる政策です。

 政府はこれまでに新事業にこだわりました。その理由は、失業した武士が大量だったからです。

 例えば、多くの失業武士が農作業へ参入することも可能でした。しかし、それではこれまで農業で生計を立ててきた農家が割を食う可能性があります。失業武士を救済することができても、それによって農家が困窮してしまえば本末転倒です。そうした観点から、これまでにない新事業が求められたのです。

 それまで農家は農耕用に牛を飼うことが大半で、乳牛として飼育していませんでした。また、牛乳は生産だけではなく、配達で人手が必要になります。

 当時は冷蔵庫などがないので鮮度が命の牛乳はとにかく早く配達しなければならず、多くの人が手分けして配達する必要があったのです。こうした理由から、牛乳生産は既存の農家と共栄できる事業と目されました。

飯田橋駅の近くに残る記念碑

 新政府軍に最後まで抵抗した旧幕臣の榎本武揚(たけあき)は、自分を慕ってくれた旧幕臣の食いぶちを確保するために牛乳生産・配達を手がける北辰社(ほくしんしゃ)を設立。北辰社は、現在の飯田橋駅(千代田区飯田橋)の近くにありました。

飯田橋駅の近くに残る北辰社牧場跡記念碑(画像:小川裕夫)

 現在、飯田橋駅の周辺は超一等地とも言える都心ですが、当時は東京の外縁部です。いわゆる郊外のため、広大な土地が簡単に手に入りました。

 そうした立地に目を付けて牧場開設を考える人は多く、榎本のほかにも明治新政府の重鎮だった山県有朋は現在の文京区音羽のあたりに牧場を開設しています。

牛乳事業も手掛けた渋沢栄一

 渋沢栄一は1879(明治12)年、神奈川県の箱根に耕牧舎(こうぼくしゃ)と名付けた牧場を開設して牛乳生産を開始しました。

牛乳の歴史。日本で国民の間に牛乳引用が広まるようになったのは1871年から。渋沢はその8年後に事業を始めた(画像:日本乳業協会)



 耕牧舎で生産された牛乳はおいしいと評判も高く、東京からも注文が入るほどでした。そのため、耕牧舎は東京に販売所を開設。箱根で生産し、東京で売るという体制を築いていきます。

 しかし、牛乳は鮮度が命。東京での売り上げを拡大することは容易ではありません。そのため、経営は順調には伸びませんでした。

 そうした苦境にくわえ、現場で生産を取り仕切っていた責任者が急死してしまいます。さまざまな要因から、渋沢は牛乳生産の事業から撤退。方針転換後は、箱根で温泉供給事業などを始めています。

 現在、牛乳は日常的に飲まれています。そうした習慣を根付かせるきっかけとなったハリスですが、実は渋沢と面識はありません。しかし、接点はあります。1927(昭和2)年、ハリスが滞在していた下田の玉泉寺にハリスの記念碑が建立されることになり、渋沢はその資金集めに奔走。除幕式にも参加したのです。

 いまや冷蔵技術が格段に向上したこともあり、広い敷地を必要とする牧場は大都市圏から見られなくなりました。約1世紀の歳月を経て、私たちは牛乳を当たり前のように飲めるようになっています。

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