江戸を焼き尽くした「明暦の大火」はなぜ起こった? ヒントは文京区本郷の特殊な地形にあるのかもしれない

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江戸を焼き尽くした「明暦の大火」はなぜ起こった? ヒントは文京区本郷の特殊な地形にあるのかもしれない

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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本郷三丁目交差点近くにある「菊坂」と明暦の大火の関係について、地形散歩ライターの内田宗治さんが考察します。

明暦の大火と火元になった寺

 江戸の町に80日以上雨が降らず、寒空のなか、町が乾燥しきっていたときに起きた大惨事があります。今からちょうど364年前、明暦3年1月18日(新暦では1657年3月2日)に発生した明暦の大火です。

 その日、朝から北西の強い風が吹いていました。この大火事では、大名屋敷160家をはじめとして江戸の町の約6割が焼け、死者は数万人から10万人と推定されています。関東大震災や太平洋戦争空襲時の火災を除けば、日本史上最大の火災。江戸城の本丸と天守もこのとき焼け落ち、以後天守は再建されていません。

 火元は3か所とされていますが、そのうちのひとつ、最初に出火したのが本郷(文京区)の菊坂にあった本妙寺です。

 菊坂は、本郷三丁目交差点近くから菊坂下交差点まで約700m、途中平らに近い区間もあるゆるやかな坂です。

階段の下に延びる菊坂下通り。階段の上に並行して菊坂(画像:内田宗治)



 本妙寺はその中腹に立地し、明治時代後期に豊島区巣鴨5丁目に移転しています。明暦の大火後も廃寺とならなかったため、本妙寺火元引き受け説(実は隣の幕府老中の屋敷から出火したものの、幕府の威信を保つため老中屋敷の代わりに火元を引き受けた)などもあるようです。

 また明治・大正時代では、樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治が、菊坂周辺に住んでいました。一葉が使っていたという井戸や彼女が通った質屋(建物が現存)、啄木や賢治の下宿跡など、文学散歩スポットや下町的風情の地が点在し、それらを散策する人の姿もよくみかけます。

日当たりの悪い場所で生まれた名作たち

 この菊坂について、ここでは地形の視点を交えながら見ていきましょう。

 菊坂から家2軒分ほど離れた一段低い所に、細い道が並行して続いています。菊坂下通りと呼ばれる道です。この通りが菊坂のある谷の底にあたります。

 大雨が降ればこの道に水が流れ込んできたでしょうし、各家の台所などからの排水は、この道付近に掘られていた水路に集まり、夏などは悪臭がしたことでしょう。下水が整備された現代では想像するのは難しいですが、当時庶民が住むこうした地形の場所にあたりまえのように見られた光景です。

樋口一葉旧家付近。一葉が使ったという井戸がある(画像:内田宗治)



 菊坂周辺を歩いてみると、一葉の住宅も賢治の下宿も、菊坂下通り沿いにあることが分かります。啄木が下宿していた赤心館や蓋平館(がいへいかん)も、菊坂下通りではありませんが、近くの崖下付近に立地しています(案内板がある地からの推定)。

 蓋平館で啄木は木造3階建ての3階に住み、富士山が見えたといいますが、広さは3畳半でした。蓋平館を除き、いずれも日当たりの悪い湿気の多い部屋だったと思われ、彼らの作品の多くが、こうした環境の下で書かれたことを思いとどめておきたいものです。3人とも肺を病んで短命(肺結核などに罹患)だったことにもつい思いをはせてしまいます。

天邪鬼のような菊坂の谷

 また菊坂には地形的に特異な特徴があります。山手線の内側とその周辺のエリアにある多数の谷筋のうち、菊坂の谷だけが、他の谷とまったく別の方角を向いている点です。

菊坂周辺の地形。北西に向かって低くなっていることがわかる(画像:国土地理院)

 東京都の地形は、西の奥多摩が標高が高く、東の東京湾に向かって徐々に低くなっています。したがって、多くの谷は東に向かって低くなります。そうでなくてもせいぜい北や南に向かって低くなります。ところが菊坂の谷だけが、比較的長い谷としては唯一、天邪鬼のように北西に向かって低くなっているのです。

 自然のどういう隆起浸食作用でこの谷ができあがったのか、筆者(内田宗治、地形散歩ライター)には分かりません。こういう特異な地形の地は、「土地の霊」のようなものが他の場所と異なり、ここで特別な事件が起きていないか気になって調べてみたことがあります。

 非科学的な話なので、ちょっとした遊び心だったのですが、この谷筋の寺が、数万人が亡くなった大火災の火元だったことが分かり驚いたものです。

地形と火災の広がりは関係アリ?

 ここで思い出していただきたいのが、大火災の当日は北西の強風が吹いていたことです。谷の方向と同じです。

 火事は丘下へより丘上へ向けてのほうが延焼しやすいと言われます。火の手は風にあおられて、菊坂の谷筋を勢いよく上っていったと思われます。風下にあたる本郷の南東には、東京の下町が広がっています。半日ほどで下町が焼き尽くされてしまいました。

「江戸の三大大火」のもうひとつ、明和の大火(1772年)でも同様のことが起きています。

目黒区下目黒にある大円寺周辺の地形(画像:国土地理院)



 現在の目黒駅の南、台地上から目黒川の低地へと下りる行人坂の下に位置する大円寺がこの時の火元でした。行人坂は南西に向かって低くなっています。出火当時、ちょうど南西の風が吹いていました。火災は行人坂の谷を上り風下の北東に向かっていきました。ここでは北東に江戸の町があります。

 こうした例を見ると、地形と火災の広がりがまったく無関係とはいいきれない気がしてきます。科学的証明を行っていない話なのですが、地形を感じながら歩いていると、いろいろと想像が膨らみ興味深い実例として挙げてみました。

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