西国分寺駅の南東にある広い歩道
西国分寺駅の南東側に長さ300m、幅がなんと12mもある歩道があります。近くに都立多摩図書館(国分寺市泉町)があるため、その関係で整備したように見えますが、実は保存された「遺跡」なのです。
遺跡の名前は、東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)。奈良時代(710~794年)以前につくられた古代の官道、すなわち都と地方をつなぐ重要な道路です。
大化改新(645年)や壬申の乱(672年)を経て、律令制(律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治体制)が整備されると、全国の行政区画は五畿七道(ごきしちどう)に分類されます。五畿とは
1.山城
2.大和
3.河内
4.和泉
5.摂津
で、七道は
1.東海道
2.東山道
3.北陸道
4.山陰道
5.山陽道
6.南海道
7.西海道
を指します。
律令制による官僚機構が機能するためには、地方と都との交通が欠かせません。それにより、国府(各国の地方行政府)への道が整備されていくことになります。
関東の中心地ではなかった武蔵国
このなかで武蔵国(現在の東京都・埼玉県のほぼ全域、神奈川県の東部)は東山道(とうさんどう)に属することに。その東山道には武蔵国のほか、美濃国・飛騨国・信濃国・上野国・下野国・陸奥国がありました。
ただその後の交通ルートを見ると、武蔵国は東山道より東海道に属したほうが自然に見えます。なにしろ江戸時代の東西を結ぶメインの街道は東海道であり、現在も東海道には、新幹線や東名高速道路という幹線(主要な線)があるからです。
しかし武蔵国が東山道に属した背景には、同国が関東の中心地ではなかったことが上げられます。
第21代天皇となる雄略天皇(418~479年)の名が刻まれた国宝「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」は、現在の埼玉県行田市にある埼玉古墳群から出土しており、また古代の豪族が栄えた遺跡の多くは上野国(現在の群馬県)など、関東北部から出土しています。
こういったことからも、大和朝廷が内陸部のルートを通って次第に関東へと進出したことや、その後も長らく上野国が関東の中心地となっていたことがわかります。
このため、東山道は武蔵国から上野国まで達してから西へと向かうルートがとられていたというわけです。現在、遺跡が保存されている西国分寺駅付近には、武蔵国分寺だけでなく武蔵国府も存在していました。もともとの武蔵国の中心地もこのあたりだったのです。
注目を集めたのは1995年
東山道武蔵路の発掘によって明らかになったのは、しつこいまでに直線的に走っていることです。江戸時代の街道でも曲がりくねっているのが当たり前にもかかわらず、古代のこの道路はとにかく直線的で、また両側に溝を持っています。
東山道武蔵路が注目を集めたのは、1995(平成7)年に中央鉄道学園跡地の再開発にともなう調査で大規模な遺構が発掘されたことによるものでした。それまでも認知はされていましたが、この発掘によって古代の道路であることが明らかになったのです。
古代の道路というと、よく想像されるのが古代ローマ時代のものです。こちらは石などを使って道路を築いているため、明らかに道だとわかります。しかしそうではない日本の古代の道路が、すぐに道路だとわかるのだろうかと思いますが、これがわかるのです。
というのも、道路は多くの人が往来をするので踏み固められています。その結果、道路の遺構はガチガチに硬くなった形でそのまま埋もれているのです。これを発見すれば、東山道がどういうルートを通っていたかが明らかになるわけです。
真っすぐ突き進む東山道武蔵路
国分寺市の発見以前には、埼玉県所沢市の東の上(あずまのうえ)遺跡で道路遺構が発見されました。このことから両者の道路を結ぶ線を想定して、その間を東西に掘っていけば、どこかで発見されると推測できます。
とはいえ間の土地の多くには住宅が立ち並んでいるため、発掘調査は使用していない土地や、建て替えでたまたまさら地になった場所を探して行う形で進みます。
これらの調査の結果、1998年に東村山市で野口橋遺構や八国山遺構と名付けられた道路遺構が発見され、東山道武蔵路が一直線につくられていることが裏付けられました。
官道は、途中に駅を設けて国府との連絡に使うのが第一の目的です。そのため、最短ルートで都と拠点を結ぶことに重点を置いていました。
理屈としてはわかりますが、道路のルートはかなり無理をしているようにも見えます。
東京都と埼玉県の県境の丘陵部にある八国山遺構は特にむちゃで、少し東に行けば平地となっているため、こちらへ遠回りすればいいものの、道路は丘陵部を突破しています。とにかく真っすぐ道路をつくるというのが、譲れない鉄則だったというわけでしょう。
直線が招いた結果
さてそんな立派な道路ですが、長くは続かなかったようです。
まず武蔵国が東山道に属していると、公務で都から派遣された人はとても不便です。というのも東山道は上野国から、武蔵国と下野国(現在の栃木県)へと二手に道が分かれています。各国を巡る場合には上野国からいったん、武蔵国へ行き、もと来た道を引き返して下野国に行かなければならないのです。
奈良時代後期になると東海道が整備されたこともあり、武蔵国は東海道に移されます。こうして、東山道武蔵路は官道から外れることになります。
その後も道路は維持されたようですが、幅12mの道路は当時の武蔵国には明らかにオーバースペックでした。発見されている遺構からも12mのうち踏み固められているのは、一部にすぎないことがわかっています。これは、通る人が少なく利用される部分も少なかったことを示しています。
さらに無理やりに直線にしたため、道路沿いの集落からも離れていたり、補修も面倒だったりと、いつしか東山道武蔵路は廃道となり、土に埋もれていったというわけです。
発掘調査によって1000年以上の時を経て明らかになった東山道武蔵路ですが、いくつかの遺跡では割れた須恵器(すえき。古墳時代の後半からつくられた陶質の土器)が道路上から出土しています。いったいなぜなのでしょう。もしや古代の人が「ああ、割れてしまった……」とその場に投げ捨てたのでしょうか。謎は深まるばかりです。