東急電鉄「武蔵新田」駅、なぜ「しんでん」ではなく「にった」なのか

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東急電鉄「武蔵新田」駅、なぜ「しんでん」ではなく「にった」なのか

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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東急多摩川線「武蔵新田駅」は一見すると「むさししんでん」と読んでしまいそうですが、正しい読みは「むさしにった」です。いったいなぜでしょうか。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

「新田」の謎

 東急多摩川線「武蔵新田駅」。これ、ずっと「むさししんでん」駅だと思っていたのですよ。場所も多摩川沿いの低地の、いかにも水田がメインでしたって場所ですし、普通は「むさししんでん」って読むと思います……よね。

 でも正解は「むさしにった」。予備知識ないと無理だと思いません?

 なぜ「にった」かというと、近くに「新田(にった)神社」(大田区矢口)があるからです。

「むさしにった」とかなで書かれたアーチ。武蔵新田駅から新田神社へ続く商店街(画像:荻窪圭)



 武蔵新田駅を出て多摩川方面に向かう商店街を歩くと「むさしにった」とひらがなで書かれたアーチが出迎えてくれます。

祭神「新田義興」にまつわるさまざまな話

 商店街をしばらく歩くと、やがて右手に新田神社が現れます。

新田神社の拝殿。コスプレをしてる人の姿もたまに見かける(画像:荻窪圭)

 新田神社の祭神は「新田義興(よしおき)」。鎌倉時代末期から南北朝期の武将ですね。新田と言えば鎌倉幕府を倒し、のちに後醍醐天皇側(南朝)について足利尊氏勢(北朝)と戦って敗れた新田義貞が有名ですが、新田義興はその次男。

 一時期鎌倉を奪還するなどけっこう活躍しており、北朝勢、つまり室町幕府側にとって厄介な人物だったのです。

 その新田義貞が謀略によって最後を迎えたのが新田神社のあたり。当時の軍記物語「太平記」にその模様がすごく詳しく描かれてます。

 詳細に書くと長くなってしまうのですが、その謀略で死んだ武将の恨みはらさでおくべきか、的なところがキモなのでちょっと紹介です。

 越後へ逃れていた新田義興は上野国や武蔵国からの要請に従って北陸から東国入りをします。東国は鎌倉府が治めていましたが、義興が軍勢を連れて鎌倉を攻めに来ると困るわけでなんとかしたいけど、義興がなかなか尻尾をつかませてくれない。

 そこで鎌倉府の重臣、畠山氏の命を受けた竹沢右京亮(たけざわ うきょうのすけ)や江戸遠江守(えど とおとうみのかみ)、江戸下野守(えど しもつけのかみ)らが大掛かりな芝居をし、新田義興の味方になったフリをしてだまくらかすことになんとか成功します。

怨霊となった義興

 一緒に鎌倉を攻めようと誘いを受けた新田義興が13人の家臣とともにやってきて、多摩川を渡ろうとしたのが「矢口の渡し」。

 そのとき、相手方に買収されていた船頭はあらかじめ船にふたつの穴を空けて栓でふさいでおき、川の真ん中で櫓(ろ)を川に投げて自らも飛び込んで栓を抜いたのです。

『太平記』第1巻(画像:岩波書店)



 それだけなら良いのですが、同時に両岸に隠れていた軍勢が現れて矢を射掛けたのですからたまりません。「これを三途の大河とは思いよらぬぞ哀れなる」と太平記に書かれています。

 新田義興らは船上で自害、3人の家臣は対岸まで泳いでたどり着き、敵5人を討ち取り13人に傷つけたところで討たれました。

 でも、謀殺されただけで神様になって祭られるのはちょっと飛躍しすぎてますよね。

 実はその後、江戸遠江守が恩賞を得て再び多摩川を渡ろうとするとき雷鳴とどろき嵐が吹き、新田義興の怨霊が現れて遠江守はその7日後に水に溺れたまねをして死んだり、矢口の渡しに夜な夜な「光物」が現れて往来の人々を悩ませたりしたので、新田義興を神様として祭ることで鎮めたと太平記にあります。

 非業の死を遂げてたたり神となった例はいくつかあり、例えば菅原道真は天満宮として祭られているし、平将門も神田明神の祭神となってます。

かつての多摩川は新田神社の裏を流れていた?

 その「矢口の渡し」の場所に建てられたという新田神社、今でも広い境内を持ち、入り口には新田義興の伝承が描かれており、本殿の裏には新田義興の墳墓と伝わる塚や、竹沢右京亮に謀略を持ちかけた畠山一族の血縁者が近くに来ると、決まってうなったというこま犬が残るなど、南北朝期のできごとが伝えられています。

新田神社の本殿とその裏にある大きな塚。新田義興の墳墓と伝わる(画像:荻窪圭)

 でも、新田神社の場所は多摩川から最短距離で800mほど。江戸時代に「矢口の渡し」があった場所からは1kmも離れています(新田神社前の道は中世の鎌倉街道で、これを道なりに歩いていくと矢口の渡し跡にたどり着けます)。

 なぜ新田神社は矢口の渡しから1kmも離れているのか。実は当時の多摩川は今よりずっと東京側を流れていて、南北朝時代の矢口の渡しは新田神社の裏手あたりだったと考えられているのです。

 確かに、新田神社の裏手は少し低い谷になっていて、川跡を思わされます。江戸時代の人もそう考えていたようで、川跡とおぼしき矢口沼というくぼ地がありました。流路が変わるに連れ、渡しの場所も変わったのでしょう。

いまだ残る義興の憤死にまつわる伝承

 このあたりには新田神社の他にも、新田義興の憤死にまつわる伝承が多く残ってます。

新田義興とともに矢口の渡しで亡くなった家臣を弔う十寄神社(画像:荻窪圭)

 新田神社前の古街道を少し南へ行くと、新田義興と共に亡くなった10人を祭る十寄神社(かつては十騎神社といった)がありますし、少し離れた下丸子には川を渡って敵と戦って倒れた3人の家臣を祭る「三躰地蔵尊」もあります。この場所は当時の多摩川の対岸と言われています。

少し歩くと別名「とろけ地蔵」が

 武蔵新田駅から下丸子駅方面へ古街道を少し歩いたところには「頓兵衛(とんべえ)地蔵」(大田区下丸子)が祭られています。

武蔵新田駅から下丸子駅へ鎌倉街道を少し歩くと現れる頓兵衛地蔵堂(画像:荻窪圭)



 頓兵衛というのは新田義興らを沈めた渡し舟の船頭で、その後罪を悔いて地蔵を建てたと言われてます。とろけ地蔵とも言われており、表面がかなり溶けていて詳細はわかりません。

 ただ、頓兵衛という船頭は新田義興の話をモチーフに江戸時代に平賀源内が(別名で)書いた「神霊矢口渡」に登場する名前で、太平記には出てきません。古い地蔵に後からそういう伝承がつけられたのでしょう。

平賀源内と聖地巡礼の意外な関係

 平賀源内と言えば、エレキテルの発明や「土用の丑(うし)の日」にウナギを食べる習慣の発案者という話で有名です。

 しかし実は新田神社でも新田義興の墳墓に生えていた篠竹を使って破魔矢を作るというアイデアを出して、それが大人気になったとか、浄瑠璃「神霊矢口渡」が大ヒットして、新田神社の参詣者がどっと増えて江戸郊外の観光地として栄えたと言いますから(今でいうアニメの聖地巡礼みたいなものかも)、今でも新田神社周辺にさまざまな伝承が残っているのは平賀源内のおかげかもしれません。

川を渡って最後まで戦った3人を弔う三躰地蔵尊(画像:荻窪圭)

 東京の歴史めぐりと言えば江戸時代が中心になりがちですが、新田神社ではそれよりはるか前の南北朝時代の物語に触れられるのです。ちょっと大田区まで足を伸ばしてみるのも一興でしょう。

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