東京・国分寺の謎 街なかに突如現れる「幅12mの歩道」とは【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(9)

西国分寺駅の南東側に長さ300m、幅がなんと12mもある歩道があります。いったい何でしょうか? 都内探検家の業平橋渉さんが解説します。


西国分寺駅の南東にある広い歩道

 西国分寺駅の南東側に長さ300m、幅がなんと12mもある歩道があります。近くに都立多摩図書館(国分寺市泉町)があるため、その関係で整備したように見えますが、実は保存された「遺跡」なのです。

 遺跡の名前は、東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)。奈良時代(710~794年)以前につくられた古代の官道、すなわち都と地方をつなぐ重要な道路です。

国分寺市泉町にある東山道武蔵路跡。赤い部分が該当箇所(画像:(C)Google)

 大化改新(645年)や壬申の乱(672年)を経て、律令制(律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治体制)が整備されると、全国の行政区画は五畿七道(ごきしちどう)に分類されます。五畿とは

1.山城
2.大和
3.河内
4.和泉
5.摂津

で、七道は

1.東海道
2.東山道
3.北陸道
4.山陰道
5.山陽道
6.南海道
7.西海道

を指します。

 律令制による官僚機構が機能するためには、地方と都との交通が欠かせません。それにより、国府(各国の地方行政府)への道が整備されていくことになります。

関東の中心地ではなかった武蔵国

 このなかで武蔵国(現在の東京都・埼玉県のほぼ全域、神奈川県の東部)は東山道(とうさんどう)に属することに。その東山道には武蔵国のほか、美濃国・飛騨国・信濃国・上野国・下野国・陸奥国がありました。

 ただその後の交通ルートを見ると、武蔵国は東山道より東海道に属したほうが自然に見えます。なにしろ江戸時代の東西を結ぶメインの街道は東海道であり、現在も東海道には、新幹線や東名高速道路という幹線(主要な線)があるからです。

 しかし武蔵国が東山道に属した背景には、同国が関東の中心地ではなかったことが上げられます。

 第21代天皇となる雄略天皇(418~479年)の名が刻まれた国宝「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」は、現在の埼玉県行田市にある埼玉古墳群から出土しており、また古代の豪族が栄えた遺跡の多くは上野国(現在の群馬県)など、関東北部から出土しています。

 こういったことからも、大和朝廷が内陸部のルートを通って次第に関東へと進出したことや、その後も長らく上野国が関東の中心地となっていたことがわかります。

奈良時代(710~794年)の交通路。赤い線が東山道武蔵路(画像:吉見町)

 このため、東山道は武蔵国から上野国まで達してから西へと向かうルートがとられていたというわけです。現在、遺跡が保存されている西国分寺駅付近には、武蔵国分寺だけでなく武蔵国府も存在していました。もともとの武蔵国の中心地もこのあたりだったのです。

注目を集めたのは1995年


【画像】ビックリ? 「東山道武蔵路」を見る

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