新大久保を断じて「コリアンタウン」と呼べない根本理由
2020年12月5日
お出かけ韓流ファンで日々にぎわいを見せる新大久保。そんな同エリアですが、アジア専門ライターの室橋裕和さんは「コリアンタウンではない」と言います。いったいなぜでしょうか。
観光地として発展してきた街
新大久保はコリアンタウンではない――そう言うと、驚く人もいるかもしれません。
韓国のレストランが軒を連ね、韓流ドラマのグッズや韓国直送のコスメのショップが並ぶ新大久保。ソウル・明洞の流行がそのままリアルタイムで反映されていると言われるこの街はいまや女子に大人気となり、韓国の文化を体感できます。ではそこに韓国人がたくさん暮らしているのか……と言うと、これがそうでもないのです。

レストランやショップが密集しているのは、北の大久保通りと南の職安通り、そしてこのふたつの道を結ぶ狭い路地、イケメン通りです。
新大久保の韓流エリアは意外に狭いのです。そして、ここから少し外れれば、ごく普通の住宅街が広がっているのですが、住民の多くは日本人。なにより、コリアンタウンと言うには「韓国人の生活の匂い」が少ないのです。
韓国の食材を売るスーパーマーケットなどもありますが、お客は韓流ファンの観光客もたくさんいます。レストランもショップも観光客でにぎわい、店によっては大行列となりますが、韓国人の姿はあまり見ません。
新大久保はあくまで日本人向けのコリアンタウン、観光地として発展してきた街なのです。
土着の韓国人はそう多くはなかった
新大久保・大久保にかけての一帯には、古くから朝鮮・韓国の人たちが住んでいました。戦後に焼け野原となった新宿周辺に住み始めた人たちもいましたし、廃品回収などを営む集落があったとも伝わっています。
開発が進む歌舞伎町で働く韓国人や台湾人が新大久保近辺に暮らしてもいました。歌舞伎町の発展とともに急増したホテル経営者にも韓国にルーツを持つ人たちが多かったと言われています。
しかし、大きな韓国人街を形成するまでには至っていません。当時を知る在日韓国人に聞くと、「韓国の店と言っても、1970年代頃まではわずかなホルモン屋と雑貨屋くらいものだった」と言います。
「食材や生活用品などで必要なものがあれば、(大きなコリアンタウンだった)上野や川崎に行っていた」と懐かしそうに語る人もおり、韓国人街としての新大久保の規模の小ささが伺えます。

1950(昭和25)年には韓国系企業であるロッテが現在の新大久保駅そばに工場を建設。これを機に韓国人が集まってきたとメディアでよく解説されますが、古くからの住民は「それは俗説にすぎない」と否定します。
ロッテの工場ができたのはこの場所に広い土地があったからにすぎず、そこに韓国人が多く雇われて住民になっていったという話もないと言います。
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