昭和時代「国鉄2万km全線走破」のほとばしる情熱と旅情 GoTo見直しの今こそ考える

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昭和時代「国鉄2万km全線走破」のほとばしる情熱と旅情 GoTo見直しの今こそ考える

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真砂町金助

フリーライター

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「GoToキャンペーン」の一時停止でさらに遠のいた旅行。しかしそんなときこそ、旅行について東京から思いをはせたいものです。今回のキーワードは鉄道の乗りつぶし。フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

コロナ禍で減少する鉄道本数

 首都圏では新型コロナウイルス感染拡大の第3波が押し寄せ、再び混乱が起こっています。11月の三連休には各地に旅行に出掛ける人で羽田空港(大田区羽田空港)が大混雑していることが話題になりました。

 今回と上半期の違いは、個人の立場や地域などによって危機と考えるかどうかの温度差があることで、「これが正解」とは一概に言えない状況です。ただ、政府が「GoToキャンペーン」の一時停止を決めたことで、自由な旅行は当分先のことになってしまったように思います。

 さて、旅行の有力な手段として今も昔も変わらない鉄道ですが、そこにも変化が起きています。運転本数は削減され、混雑期に実施される臨時列車の増発も激減しました。

 さらに深夜に品川駅を出発し、明け方に大垣駅(岐阜県)に到着する「貧乏旅行の定番」だったムーンライトながらも2020年は運行が取りやめに。東京からの帰省にこの列車を使った思い出のある人も多いでしょう。

地方鉄道のイメージ(画像:写真AC)



 とりわけ「大垣夜行」として毎日運転されていた時代には、乗り合わせた客同士で交流を深めるなど、旅情を感じながら移動できるまたとない列車でした。

「完乗」を目指した若者たち

 とりわけ混雑するのは、1日乗り放題の「青春18きっぷ」の時期です(1982年に発売開始)。日時の変わる最初の停車駅までは切符を買って大垣夜行に乗るという技術は、ネットのない時代から伝承をされていたものです。

 そんな青春18きっぷで全国を旅行する若者たちの憧れが全線の「完乗(かんじょう)」、すなわち全路線をすべて乗りつぶすことでした。

 日本交通公社時刻表編集部に所属していた石野哲さんが手掛けた『時刻表名探偵』(日本交通公社、1979年)によると、最初に完乗を成し遂げたのは慶応大学の学生だった後藤宗隆さんで、1959(昭和34)年だったといいます。なお石野さん自身も完乗を達成したひとりでした。

1979年に出版された石野哲さんの『時刻表名探偵』(画像:日本交通公社)

 日本各地ではこの頃鉄道建設が盛んでしたが、後藤さんは紀勢本線が全通してから8か月間は新路線の開業がないことを確認し、同年7月に完乗を成し遂げました。

仕事をしつつ「完乗」に挑戦する人たち

 その後も完乗に挑戦する人は現れましたが、大きく注目を集めるようになったのは1978(昭和53)年7月に宮脇俊三さんの『時刻表2万キロ』が刊行されてからのことでした。

1978年に出版された宮脇俊三さんの『時刻表2万キロ』(画像:河出書房新社)



『時刻表2万キロ』は、紀行作家として今も親しまれる宮脇さんの処女作です。宮脇さんは編集者で、『中央公論』の編集長のほか『世界の歴史』シリーズを担当したことで知られており、その仕事の合間に全国の鉄道を成し遂げました。『世界の歴史』は当時の一流の歴史学者が各巻を担当した、今でも愛されているシリーズです。

 また『時刻表2万キロ』の出版にあたり、それまで編集者として執筆者に接してきたことのけじめとして、会社を退社したことも作品の魅力を高めています。

 さて、この本が話題となるとににわかに「国鉄2万キロの全線走破」が注目を集めることになります。

『サンデー毎日』1978年11月26日号は、前述の『時刻表名探偵』著者・石野哲さんに取材した上で「やりとげるのに必要なのは、体力と気力。金は問題外だそうだ」「当たり前ながら何よりも必要なのはヒマである」と書いています。

 石野さんのもとには完乗を達成した人からの報告が続々と届き、1978年頃の記事によると31人、それが翌年刊行の『時刻表名探偵』では36人となっており、次々と達成者が現れたことがわかります。

 今でこそ有給休暇取得への権利意識は当たり前ですが、当時は余暇や旅行のために仕事を休むことはあり得ない時代でした。石野さんが言う「気力」とは、周囲の目を気にせずに日々の仕事をこなしつつも、完乗の旅に出掛ける胆力だったと考えられます。

 この記事では完乗を達成した人物として、当時東京地方裁判所の判事だった石田穣一さんを取り上げています。石田さんは東京高等裁判所長官まで出世した人で、土日はもちろんのこと、年末年始や夏休みを使って完乗に挑んでいました。

国鉄キャンペで完乗達成者は1500人に

 この『サンデー毎日』の記事は、当時40歳になっていた完乗第1号の後藤さんにも取材しています。後藤さんは当時、敷島紡績(現・シキボウ)の常務でした。

 後藤さんによると完乗の挑戦には10人ほどの同士がいたものの、みんな途中で止めてしまい、さらに鉄道趣味そのものが当時は知られていなかったため、他人に話しても「金持ちの息子が道楽でやっている」と見られがちだったと語っています。

『時刻表2万キロ』の影響で、国鉄は1980(昭和55)年からキャンペーン「いい旅チャレンジ20,000km」を始め、その完乗者は1500人に達しました。

 各地ではローカル線が廃止されているため、現在は乗りつぶす路線が減っていることもあり、完乗は簡単になったと見えるかも知れません。しかし寝ながら移動できる夜行列車はなくなり、寝られる駅も減り、困難さはむしろ増しているような気もします。

地方鉄道のイメージ(画像:写真AC)



 コロナ禍で旅立つことはなかなかできませんが、紙の時刻表を片手に机上で完乗を楽しんでみるのもいいかもしれません。

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