熱狂は『鬼滅の刃』以上? 40年前の新宿で始まった歴史的「アニメ伝説」とは

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熱狂は『鬼滅の刃』以上? 40年前の新宿で始まった歴史的「アニメ伝説」とは

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星野正子

20世紀研究家

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公開から31日間で興行収入が233億円を記録し話題となっている、映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』。そんな熱狂以上のパワーが40年前にあったのをご存じでしょうか。20世紀研究家の星野正子さんが解説します。

公開31日で興行収入233億円を記録

 コロナ禍にも関わらず、映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が大ヒットしています。10月16日(金)の公開から31日間で興行収入は233億円を記録し、観客動員数は1750万人を突破。歴代興行収入ランキング5位にランクインしました。

TVアニメ『鬼滅の刃』(画像:(C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable、エクシング)



 これまで日本で公開された映画の興行収入ランキングは1位から、

・『千と千尋の神隠し』(2001年、308億円)
・『タイタニック』(1997年、262億円)
・『アナと雪の女王』(2014年、255億円)

で、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』がどこまで迫るのか、そして越えるのかが目下の話題です。その盛り上がりからは、同作を見ないとあたかも「時代遅れ」になってしまう空気すら感じます。

 アニメ作品で映画館に行列ができる――そのようなことが大きく注目されたのは、1981(昭和56)年3月。それ以前も『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』(1977年公開)に中高生が行列したことが話題となりましたが、本格的に注目を集めたのはこの時でした。

 3月14日、春休み向け劇場アニメの封切りが予定されており、映画業界では「3・14決戦」として興味の的になっていたのです。

 劇場のラインアップは松竹系列の『機動戦士ガンダム』、東宝系列の手塚治虫原作『ユニコ』と『おじゃまんが山田くん』、東映系列は『東映まんがまつり 白鳥の湖』のほか、『宇宙戦艦ヤマト』の「ヤマトよ永遠に」「新たなる旅立ち」の再上映を予定していました。

80年代、アニメは「若者の共通体験」になった

 当時、アニメ作品のみで大金がもうかるとは認識されていませんでした。前年の1980年には『ドラえもん のび太の恐竜』が公開されていますが、単体上映ではなく怪獣映画『モスラ対ゴジラ』との2本立てでした。

 しかし前述の『宇宙戦艦ヤマト』1作目・2作目の実績などから、風向きは徐々に変わっていきます。そして配給会社は単体上映へとかじを切り始めたのです。

「3・14決戦」でヒットしたのは『機動戦士ガンダム』でした。『朝日新聞』1981年3月14日付朝刊では、「ヤングだって辛抱強いよ。アニメ映画に600人が行列」という見出しで、新宿松竹会館(現・新宿ピカデリー)の盛況を報じています。

 テレビ放映後ににわかに人気が高まった『機動戦士ガンダム』は封切り前から話題になり、前売り販売は70万枚の記録を持つ『八甲田山』に次ぐ、60万枚となりました。その後も劇場版はヒットを続け、現在のシリーズへとつながっていきます。

2020年2月発売された雑誌『ガンダムVSザク大解剖』(画像:三栄)



『機動戦士ガンダム』の歴史を語る上で欠かせないのが、劇場版第1作の公開を前に1981年2月22日に新宿駅東口のアルタ前広場で開催された宣伝イベント「2・22アニメ新世紀宣言大会」です。

 この催しは1万5000人ものアニメファンが集まったことと、総監督・富野由悠季(よしゆき)さんが読み上げた

「私たちは、アニメによって拓(ひら)かれる私たちの時代とアニメ新世紀の幕開けをここに宣言する」

という宣言文を通して、アニメの歴史が変わった出来事とされています。

『朝日新聞』2009年10月17日付朝刊に掲載された、この催しを振り返る記事では

「アニメが若者の新しい文化であることを、新宿に1万5000人を集めて高らかに宣言したイベントがあった」

として、当時スタッフとして携わった小牧雅伸さん(アニメ雑誌『アニメック』の元編集長)の「フォークも政治運動ももうない時代、若者の共通体験はアニメになった」というコメントを紹介しています。

1982年作品、公開5日前に早くも行列が

 現在、当時作品に夢中になった人たちは日本社会の中核を担っています。そんな彼らは過去を振り返って「1981年の出来事が転換点」と考えるわけですが、当時はまったく異なり、ロボットの出るアニメ映画が子どもたちに話題……程度のものでした。多数派は中高生の子どもたちで、ぎりぎり若者にあたる大学生はまだ少数派だったのです。

 しかし『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』が公開された1982年の記事を見てみると、状況は一変。

『FOCUS』1982年3月26日号は、新宿松竹会館に「8日前から劇場の前で並んでよいか」という申し込みがあったと報じています。さすがにこれは断られたようですが、行列を解禁した5日前から中高生が並び始め、前日にはついに700人を超える行列となりました。

 驚くのは、この行列がしっかり自主管理されていたことです。

「一人の大学生ファンが代表となって、並んでいる子どもたちの名簿を作成し、行列の自主管理を開始したのである。まず、行列は朝10時から夕方5時まで、または9時から6時までと、毎日並ぶ時間が決められ、列を離れていたのは食事とトイレの時だけ、という規則も作られた。時折、抜き打ちの点呼があり、申告せずに行列を離れた者は、有無をいわさず名簿から消された。かくして、雨が降り出した12日夜、劇場側が開放した館内で徹夜する“栄光”に浴したのは、そうした厳しい統制を耐え抜いた少年たちだけだったのである」

 当時、小学生が徹夜したり、親が子どもを置いて帰ったりしたため、劇場側はかなり困惑していたそうです。1本の映画を見るために、そこまで時間と体力を費やす熱狂――過去を振り返って「あの頃は……」となる気持ちもわかります。

富野由悠季(画像:アニマックスブロードキャスト・ジャパン)



 しかしこんな熱狂の中で、富野さんは『現代』1981年5月号に寄稿し、こう語っています。

「私も個人的には、アニメファンに偏見を持っている。基本的には嫌いだ。若い時には、テレビにかじりついたり、アニメにのめり込んだりしてほしくない。他にもやることがあるように思う」

 この言葉から、今回の『鬼滅の刃』ブーム含め、熱狂の中でも冷静さは欠かせないということがわかります。そしてそれは、歴史の教訓なのです。

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