こち亀でお馴染みの「勝鬨橋」 実は1940年東京万博のメインゲートになる予定だった

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こち亀でお馴染みの「勝鬨橋」 実は1940年東京万博のメインゲートになる予定だった

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小西マリア

フリーライター

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1940年に東京で万博が開催予定だったことをご存じでしょうか。その歴史背景について、フリーライターの小西マリアさんが解説します。

忘れ去られた東京万博

 1970(昭和45)年に開催された大阪万博が55年ぶりに2025年、開催します。

 以前と比べて、大規模な博覧会が国内で開かれることも少なくなりました。最後に話題となったのは2005(平成17)年の愛知万博ですから、万博がどんなイベントだったのか、記憶が曖昧な人も多いのでしょう。ただ、数多くのパビリオンが建てられ、世界の最新技術や珍しいものが一堂に会するイベントでワクワクするのは今も変わりません。

 さて、延期になった東京オリンピック・パラリンピックは、戦争の影響で中止になった1940年大会となにかと比較されがちです。一方、意外に言及されにくいのが同年開催予定だった東京万博・紀元2600年記念日本万国博覧会です。

 日本は当初、1940年にオリンピックと万博を同時開催しようとしていました。なお、これらに加えて冬季オリンピックも札幌で予定していたため、とんでもないイベントの当たり年になる予定だったのです。

 東京万博のメイン会場に決まったのは、東京湾の月島4号地と5号地(現在の晴海と豊洲)。当時できたばかりの埋め立て地でした。これに加えて横浜の山下公園にも会場を設置することになり、会場面積は160万平方メートルになりました。

 予算も膨大で、1940年東京オリンピックの総予算が約3100万円を見込んだのに対して万博は約4450万円でした。

 この万博に向けてつくられた施設のうち、現存するもので最も有名なのが、隅田川に架かる勝鬨橋(かちどきばし)で、万博会場へのメインゲートとなる予定でした。また勝鬨橋自体には、日本の技術力の高さを示す意図がありました。

勝鬨橋(画像:写真AC)



 橋の計画が持ち上がったとき、米国企業から援助の申し出もありましたが、それを断り日本人だけで設計・施行が行いました。今ではレトロな橋となっていますが、当時は東洋一の可動橋で、最新技術の塊。欧米でも使われていない特許技術も多数含まれていたのです。

五輪は中止、万博は延期に

 さて、そんなメインゲートの先にはどんな会場が予定されていたのでしょうか。当時、万博に向けて多くの広報が行われており、入場券を販売する段階まで進んでいたこともあってか、資料は意外と残っています。

2025年日本国際博覧会協会のウェブサイト(画像:2025年日本国際博覧会協会)



 万国博協会の広報誌『万博』からは、万博の延期決定後も発行が続いたことや、東京オリンピックの中止決定後も万博は開催が模索されていたことがわかり、かなり熱量が高かったことがうかがえます。

 ここで話を整理すると、1940年東京オリンピックは中止になりましたが、万博はあくまでも延期。誰も中止にするとは言っていないのです。1970年の大阪万博や2005年の愛知万博で、1940年東京万博の入場券が使用できることになったのは、このような経緯があるからです。

メインパビリオン周囲には映画館などが

 資料によれば、勝鬨橋を渡った先にあるのが、まず入場門。塔のある入場門に続き、左右に五重塔をデザインした正門を建設する予定でした。その中に入ると会場に向けて商店街が広がります。帰りにお土産を買うための、今でいうところのショッピングモールのようなものでしょう。

五重塔のイメージ(画像:写真AC)

 そして見えてくるのが、日本の歴史や万博のテーマにまつわる展示を行う、メインパビリオンである肇国(ちょうこく)記念館です。

 東京万博は紀元2600年記念のため、この展示は欠かせません。今は勝鬨橋を渡って晴海通りが豊洲方面まで延びていますが、晴海大橋のあたりに肇国記念館がドンと建つ予定だったのです。その周囲は30あまりのパビリオンと映画館、スタジアムが並びます。

 そして、豊洲会場は産業と外国のパビリオン。このふたつの会場を結ぶ橋は木造で建設する予定だったようです。

万博終了後、東京市庁舎の移転計画も

 実際に開催された場面を想像してみましょう。

 銀座方面からぞろぞろと歩いて会場へ向かうと、築地を過ぎて最新鋭の勝鬨橋が見えて来ます。運がよければ橋が開くところも見物することができます。

 そこから、歩いて勝どきを通り過ぎて晴海の会場へ。当時、既に勝どきは倉庫や長屋の並ぶ地域になっていたため、最先端という感じはありません。ゆえに、会場が見えるとその輝きがいっそう光るというわけです。

 果たして、そこまで意図して会場へのアクセスルートが選定されたかはわかりませんが、ともあれその後の1970年大阪万博や2005年愛知万博、2025年大阪万博に比べると、街の中心地に近いところで開催されています。

 そのため会場から東京の街を見ると、さらに街が発展していく姿がイメージされたのではないでしょうか。実際に万博終了後、現在の晴海トリトンスクエア(中央区晴海)のところに東京市庁舎が移転するという計画もありました。

晴海トリトンスクエア(画像:写真AC)



 東京万博が幻となった晴海ですが、東京オリンピック・パラリンピックの選手村が建設され、開催後は新たな住宅地となることが決まっています。数年後には数万人が住む規模の街ができるわけですが、いったいどんな変化を見せるのか。もう、毎日が万博みたいになりそうです。

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