東京には江戸の「副業ブーム」で建てられた社寺がいくつもあった

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東京には江戸の「副業ブーム」で建てられた社寺がいくつもあった

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小川裕夫(フリーランスライター)

東京には、別院や分社といった形で江戸市中に勧請された社寺が残っています。それら共通するのは、「大名の副業ビジネス」でした。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

参勤交代で財政がひっ迫していた地方大名

 正月になると、多くの人が初詣へ出掛けます。東京には数多くの有名な神社仏閣があるため、実際に訪れたことはなくても、港区虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)、赤坂の豊川稲荷、日本橋蛎殻町の水天宮などの社寺は一度ぐらい名前を耳にした経験はあるでしょう。

 これら3つの社寺に共通するのは、もともと地方にあった社寺ということです。江戸時代、これらの社寺は別院や分社といった形で江戸市中に勧請(かんじょう)されました。

港区虎ノ門の金刀比羅宮(画像:写真AC)



 わざわざ地方の神社仏閣が、江戸に勧請されたのは明確な理由があります。江戸時代に各地の大名の資本力をそぐ目的で始められた参勤交代は、多額の出費を必要としました。その効果はてきめんで、江戸に滞在する大名は常に財政のひっ迫に悩まされることになります。

 各地の大名は参勤交代の費用を抑えようと工面しますが、それでも最低限の必要経費はかかります。そこで、不足する財政を補うため、副業で稼ぐことを考えたのです。

 当時、江戸に滞在する大名には上・中・下の屋敷が与えられていました。大ざっぱに分類すると、上屋敷は藩主が生活する場、中屋敷は後継となる若君や奥方が生活する場、下屋敷は家臣が生活する場となります。そのほかにも、抱屋敷(だきやしき)という食料などを保管するトランクルームのような屋敷地を抱えていた大名もいました。

 いずれにしても、これらの屋敷地の出入りは厳しく制限されていました。町人が容易に立ち入ることはできなかったのです。

他の大名たちも地元の社寺を勧請

 しかし、立ち入ってはいけないと言われると、中をのぞきたくなるのが人情というものです。江戸で暮らす人々の間には、大名たちがどんな生活をしているのか見てみたいという淡い羨望(せんぼう)がありました。

 窮乏する大名たちは、そうした町人たちの気持ちを巧妙にすくい取り、日にちを限定して屋敷地の有料公開をしたのです。

赤坂の豊川稲荷(画像:写真AC)



 ただ、屋敷地の入場料として金銭を収受することは武士の面目に関わります。そんなことで金を稼いでいると他藩に知られてしまえば、さもしいと恥をかきます。名誉や家名が何よりも大事にしていた当時の武士ですから、メンツを汚さぬような名目が考案されました。それが屋敷地に地元の由緒ある寺を勧請し、そこに町人たちを参拝させるという仕組みです。

 町人が参拝した際、投じるさい銭は各大名たちの副収入になりました。丸亀藩は江戸期からこんぴらさんの名前で全国的に知られていた金刀比羅宮を、TBS系列で長らく放送されていた時代劇“大岡越前”でお馴染みの大岡忠相は自国領の三河西大平藩内にあった豊川稲荷を、大名が趣味に傾倒して藩財政が傾いてしまった久留米藩は安産や子育ての神として有名な水天宮を勧請しました。水天宮は地下鉄半蔵門線の駅名にも採用され、いまや都民には広く知られた存在になっています。

 窮乏を脱するために編み出したさい銭ビジネスは、藩財政を立て直すほどの稼ぎをたたき出しました。そしてさい銭ビジネスという副業が大当たりするのを横目で見ていた大名たちも、競うように地元の社寺を勧請していったのです。

明治維新で変わった運命

 しかし、江戸市中には社寺はたくさんあります。各地の由緒ある寺が勧請されたことで過当競争が起こり、思うような収入をあげられない社寺もありました。

日本橋蛎殻町の水天宮



 サイドビジネスとして大名に収益をもたらした社寺ですが、明治維新が運命を大きく変えます。

 新たに発足した新政府は大名たちが所有していた江戸藩邸を接収。そのため、大名たちはサイドビジネスとして活用していたや敷地内の社寺を手放すことになりました。

 東京に勧請された社寺で、幸運にも現在まで東京に残っているものもあります。そうした社寺は、明治維新から150年が経過して大きく変貌してしまった東京において、かすかに江戸の香りを伝えています。

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