東京には江戸の「副業ブーム」で建てられた社寺がいくつもあった
2020年1月5日
知る!TOKYO東京には、別院や分社といった形で江戸市中に勧請された社寺が残っています。それら共通するのは、「大名の副業ビジネス」でした。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
参勤交代で財政がひっ迫していた地方大名
正月になると、多くの人が初詣へ出掛けます。東京には数多くの有名な神社仏閣があるため、実際に訪れたことはなくても、港区虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)、赤坂の豊川稲荷、日本橋蛎殻町の水天宮などの社寺は一度ぐらい名前を耳にした経験はあるでしょう。
これら3つの社寺に共通するのは、もともと地方にあった社寺ということです。江戸時代、これらの社寺は別院や分社といった形で江戸市中に勧請(かんじょう)されました。

わざわざ地方の神社仏閣が、江戸に勧請されたのは明確な理由があります。江戸時代に各地の大名の資本力をそぐ目的で始められた参勤交代は、多額の出費を必要としました。その効果はてきめんで、江戸に滞在する大名は常に財政のひっ迫に悩まされることになります。
各地の大名は参勤交代の費用を抑えようと工面しますが、それでも最低限の必要経費はかかります。そこで、不足する財政を補うため、副業で稼ぐことを考えたのです。
当時、江戸に滞在する大名には上・中・下の屋敷が与えられていました。大ざっぱに分類すると、上屋敷は藩主が生活する場、中屋敷は後継となる若君や奥方が生活する場、下屋敷は家臣が生活する場となります。そのほかにも、抱屋敷(だきやしき)という食料などを保管するトランクルームのような屋敷地を抱えていた大名もいました。
いずれにしても、これらの屋敷地の出入りは厳しく制限されていました。町人が容易に立ち入ることはできなかったのです。
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