本当? 品川区はかつて「メロン」の名産地だった

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本当? 品川区はかつて「メロン」の名産地だった

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大居候

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高級フルーツとして知られるメロン。そんなメロンが何と品川でかつて作られていたのをご存じでしょうか。フリーライターの大居候さんが解説します。

町人に人気だった江戸野菜

 東京23区のひとつである品川区。近年は五反田や大井町が発展し、話題を呼んでいます。

 そんな町の発展は明治以降のこと。もともと品川区域は江戸時代を通じて農村地帯で、かなり特徴的な趣をしていました。江戸の人たちが消費する特産品の産地として知られており、

・品川カブ
・大井ニンジン
・居留木(いるぎ)橋カボチャ

など、生産の地名を持つ野菜が数多く知られていました。

 また街道沿いでは道中を歩く人たちを相手に商売をして、栄えている農村も多かったとされています。

かつて品川区ではマスクメロンが栽培されていた(画像:写真AC)



 そんな都市近郊農村で収穫される野菜の味は、当時の資料にも記録されています。1843(天保14)年に品川宿が代官に提出した『宿方明細書上帳』には

「大井村にてにんじん、葱(ねぎ)を多く作り出し、大井にんじん、品川葱と相唱え、別して風味宜しく、何れも名産」

と書かれています。

 このわずかな記録からも、味にうるさい江戸の人たちを満足させるおいしい野菜だったことがわかります。

区内の小学校では栽培体験も

 居留木橋カボチャは現在見られるカボチャとは異なり、皮がちりめんのようにゴツゴツした独特のカボチャだったとされています。居留木橋とは現在の大崎近辺のこと。今でも目黒川には居木橋という名前の橋がかかっています。

居留木橋カボチャ(画像:品川区)

 その始まりは、江戸時代前期にたくあん漬けを考えたと伝承される沢庵(たくあん)和尚が、徳川家光により東海寺(品川区北品川)の開山に命じられたとき、上方から種を取り寄せ、居木橋村名主の松原庄左衛門に栽培させたのが始まりとされています。

 別の説では、松原庄左衛門が東海寺の御手伝い普請を申しつけられたときに、寺の井戸端にあったカボチャを持ち帰り栽培を始めたともされています。

 今や東京の新たな副都心となった大崎でカボチャを栽培している農家はありませんが、品川区内の小学校では近年、このカボチャを栽培する体験が行われています。

 別名を「ちりめんカボチャ」というだけあって、普段スーパーなどで目にするカボチャとは異なり、ゴツゴツした茶色い外見が特徴です。

「目黒のタケノコ」の正体

 もうひとつ、品川区域の名産品として知られるのが戸越のタケノコです。

 これは、1789年(寛政元)年に戸越村の山路治郎兵衛(やまじ じろうべえ)勝孝が薩摩から孟宗竹(もうそうちく)を取り寄せて栽培を始めました。

 治郎兵衛は築地鉄砲洲(現・中央区湊から明石町まで)で幕府御用の廻船(かいせん)問屋を営んでいましたが、戸越に別邸を建てた際に村人から村の特産品がないことを聞き、孟宗竹を取り寄せて栽培を進めたとされています。

 廻船問屋だった治郎兵衛は薩摩藩とも付き合いがあり、藩の屋敷に招かれたときに振る舞われるタケノコ料理のおいしさを知っていたそうです。そんな治郎兵衛の墓碑は品川区小山1丁目にありますが、これは「孟宗筍(だけ)栽培記念碑」として品川区指定文化財になっています。

孟宗筍栽培記念碑(画像:(C)Google)



 ただこのタケノコは、多くの参詣者を集める目黒不動の門前でタケノコご飯として出して人気を集めたことから、戸越のタケノコではなく「目黒のタケノコ」として広まりました。目黒のタケノコといえば目黒のサンマと並んで知られる存在ですが、その産地は品川区域だったのです。

大正期に栽培が始まったマスクメロン

 さて明治時代以降、品川区域には工場も増えて都市化が進み、農村の風景は次々と失われていきました。しかし、品川区から農地がまったく失われたわけではありませんでした。

品川の「江戸野菜」栽培分布図(画像:品川区)

 大正期になると増加する人口を相手に、温室栽培が盛んに行われるようになります。そこで盛んに栽培されていたのがマスクメロンでした。

 中でも大井町近辺は栽培が盛んでした。品川区域が東京市に合併される前の調査報告によれば

「穀類・蔬菜(そさい。野菜)の栽培は絶無の状況なり、然れども本町は温室栽培盛んにして、マスクメロン及薔薇・カーネーション・ダリヤの産額58万余円に達す」

と記されています。

 以前とは打って変わり、近代化が進む都市の住人が好む花や果物の栽培へと転換した品川区域の農家は、チャンスを素早くつかんで的確に行動していたと言えるでしょう。

メロンの普及に貢献

 そんな中で生まれたのが、地名にちなんで「大井」と呼ばれるマスクメロンです。1921(大正10)年に栽培が始まったとされる、このマスクメロンは重さは1kgほど。ジューシーで爽やかな甘みと香りのある品種でした。

 そのおいしさもさることながら、この品種はマスクメロンを誰もが食べられるものへと変えた画期的なものでした。それまで、人たちが一般的に目にするメロンといえば、マクワウリでした。

 マスクメロンは、それこそ銀座の高級店にいかなければ売っていないとても高級な果物でした。そんなマスクメロンが大井の登場によって生産高が増え、徐々に一般市民の手に届くものになっていったのです。

カットされたメロン(画像:写真AC)



 メロンの普及といえば、一般的に太平洋戦争後に品種改良されたプリンスメロンを思い浮かべますが、それ以前に、しかも品川区から普及が始まっていったのです。

 今では品種改良が進んだことで大井は過去の栽培種となっていますが、病気に強いことから、マスクメロンの挿し木栽培の台木として近年まで使われていました。

 すっかり都市になってしまった品川区を見ると、まさかメロンで栄えていた時期があったとはなかなか想像できないでしょう。

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