【終戦75年】「俺が死んだら何人泣くべ」 特攻隊員が残した覚悟の遺書と、たったひと言の偽らざる気持ち

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【終戦75年】「俺が死んだら何人泣くべ」 特攻隊員が残した覚悟の遺書と、たったひと言の偽らざる気持ち

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合田一道

ノンフィクション作家

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2020年の終戦記念日が近づいてきました。軍司令部の名を受け、特攻隊員として亡くなった若者は出陣の直前、どのような思いでいたのか。ノンフィクション作家の合田一道さんがひとりの男性に迫ります。

大きくなったら戦地へと信じた少年期

 東京でも猛暑日を記録する日が続いています。まさに真夏といったこの時期、終戦記念日(8月15日)が近づいてくると、あの文言がよみがえってきます。

「俺が死んだら何人泣くべ」

 若き特攻隊員、前田啓が出撃前に書き記した文言です。

「俺が死んだら何人泣くべ」という書を残した特攻隊員、前田啓(画像:合田一道)



 北海道室蘭市出身。23歳。1945(昭和20)年4月3日朝出撃、と記録されています。

 この書を鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館で見たのはもう30年も前ですが、いまもまぶたに焼きついて離れません。一読して分ける北海道弁。筆者(合田一道。ノンフィクション作家)も北海道生まれなだけに、この表現がズシンと胸を突くのです。

 戦争たけなわの頃、まだ小学生だった筆者は、「小国民」として国民学校(小学校のこと)に通い、軍国教育を受けていました。ですから何の疑いも抱かず、大きくなったら戦地へ行こうと、本気で考えていました。

 同級生の男子たちも皆、同じ思いで、中には「俺は陸軍大将になる」などと胸を張る子もいました。

「太平洋ノ防波堤トナリ 死ニマス」

 歓呼の声に送られて戦地に赴き、戦死したら、俺のために何人泣いてくれるだろうと、友だちと真顔で話し、「母に、姉に、それから担任の先生か」などと指折り数えていたのを、悲しいことですがいまも鮮明に覚えています。

 いまでは想像もできない話ですが、そんな時代でした。

 それゆえにこの書を見て、年齢が11、12歳も離れている先輩までが、少年だった自分たちとよく似た感情を抱いていたのかと、心を動かされたのです。

 ほかにまだ書いたものがないかと思い、調べたところ、村永薫編『知覧特別攻撃隊』(ジャプラン)に本人の遺書が記されていました。

 陸軍特別攻撃隊振武隊陸軍少尉とあり、戦死後に大尉に昇進しています。その文面を省略しながら掲げます。

村永薫編『知覧特別攻撃隊』(画像:ジャプラン)



 父母様、啓ハ大命ヲ拝シテ往ク事ニナリマシタ。二十有余年ノ今日ニ至ル迄(まで)厚キ恩愛情ヲ受ケ、何一ツ孝行モ出来ズ御心配バカリカケ申シ訳御ザイマセン。啓ハ大君ノ御為太平洋ノ防波堤トナリ死ニマス。武人ノ名誉之(これ)ニ過グルハナシ。

 君ニ忠ナリ親ニ孝ナリノ両輪コレノ道義ニ邁進(まいしん)シ、死ヲ以(も)テヨリ高ク海ヨリ深シノ君親大恩(くんしんたいおん)ノ万分ノ一アリト報イ奉ル決心ナリ。

 特ニ自分ノ墓ハ不用デアリマス。亡母ノオン墓ノ側ニ寝カセテ下サイ。サヨウナラ。天皇陛下万歳、振武隊万歳

 若桜屍ヲ空ニサラストモ 何惜シカラウ大君ノタメ

500kgもの爆弾とともに敵艦目がけて

 あの、「俺が死んだら……」の本音とは全く違う、遠くかけ離れた印象の別離の書で、別人のような感じを受けました。そして死を直前にした若者が、死の本質を自らに言い聞かせて書いた――そんな印象を抱き、筆者は胸が裂けるほどの痛みを覚えました。

 特攻機は胴体に500kgもの爆弾を装置し、片道分だけの燃料を積んで飛び立っていき、敵艦目がけてぶつかっていく。出撃したら帰還しないという人類史上類のない肉弾攻撃の特攻機です。

 アメリカ軍はこの戦法に驚き、震え上がったといいます。この特別攻撃は敗戦の日の1945(昭和20)年8月15日まで続いたのです。

 この日正午、昭和天皇はラジオの「玉音放送」でポツダム宣言を受託する旨を伝え、これにより戦争は終結します。

知覧特攻平和会館に展示されている海軍零式艦上戦闘機(画像:知覧特攻平和会館ウェブサイト)



 それにしてもどれだけ多くの特攻隊員が死んでいったのか。

 原勝洋編著『鎮魂 特別攻撃隊の遺書』によると、出撃、体当たりを敢行した特攻機は657機で、直接命中したのは351機。命中により被害を受けた艦船は104隻、沈没は49隻にのぼった、と記されています。

 また特攻機の搭乗者は総勢3853人(海軍2516人、陸軍1337人)、このうち学徒出身者は1090人で、全体の28%を占めていたとあります。

 別の記録では、特攻の戦死者は2522人とするものもあります。

特攻隊員へあてた指揮官の「わび」状

 特攻作戦を発案し、実行に移した中心人物とされる海軍軍司令部次長の大西瀧次郎中将は、最後まで徹底抗戦を主張しましたが受け入れられず、玉音放送の翌日、腹を切りました。

特攻隊の遺品や関係資料を展示する「知覧特攻平和会館」(画像:知覧特攻平和会館ウェブサイト)



 妻への遺書ともう1通、特攻隊員への次の遺書が残されていました。

 多くの特攻隊員を死地に送り込んだ指揮官の「わび」の言葉です。皆さんには、どう聞こえるでしょうか。

 特攻隊の英霊に曰(もう)す 善(よ)く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつヽ肉弾として散華せり 然れ共(しかれども)其(そ)の信念は遂(つい)に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

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